新たに光太郎智恵子ゆかりの建造物が2件、重要文化財に指定される運びとなりました。
先週の『朝日新聞』さん記事から。
まず、鎌倉の旧神奈川県立近代美術館。
昭和26年(1951)に開館、光太郎と交流の深かった土方定一が2代目館長を務め、光太郎が歿した昭和31年(1956)には、初の「高村光太郎・智恵子展」が開催されました。
永らく「カマキン」の愛称で親しまれましたが、平成28年(2016)に惜しまれつつ閉館。最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」では、光太郎作品も複数展示して下さいました。
コルビジェに師事した板倉準三設計のモダニズム建築ながら、土地の使用権の問題などもあったため、一時は建物の存続も危ぶまれていたのですが、無事、残ることとなりました。喜ばしいかぎりです。現在は鶴岡八幡宮さんに所有が戻り、「鎌倉文華館鶴岡ミュージアム」として運用されています。
『毎日新聞』さんの神奈川版から。
もう1件、大正元年(1912)に光太郎智恵子が訪れ、愛を誓った千葉銚子の犬吠埼に聳える犬吠埼灯台も指定される見通しですが、そちらについては明日。
【折々のことば・光太郎】
何時頃出来上るか……それは同じ大きさのもので三ヶ年かゝるものもあれば一月(ひとつき)位で出来るものもあり、まだ、其んな事は一切考へてゐません。
「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者の成瀬仁蔵。その胸像の制作依頼を学校から受けた際の談話の一節です。
像は光太郎自身が納得のいくものがなかなかできず、作っては壊し、造っては毀し、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。
画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。
先週の『朝日新聞』さん記事から。
京都・八坂神社本殿が国宝へ 重文に16件 文化審答申
文化審議会は16日、京都市の八坂(やさか)神社本殿を国宝に、旧神奈川県立近代美術館(同県鎌倉市)など16件の建造物を新たに重要文化財に指定するよう文部科学相に答申した。
八坂神社は疫病退散を祈願する祇園(ぎおん)信仰の総本社。今の本殿は1654年に、江戸幕府の4代将軍徳川家綱によって建てられた。通常、神社では参拝者が本殿の外からお参りするが、八坂神社は本殿の中に参拝者が礼拝する「礼堂」があり、供え物を置く棚もある。文化庁によると、この構造は鎌倉時代の資料や室町時代の図面にも記され、中世の信仰儀礼と建物の関係を示している。屋根の三方にはひさしが付いており、これは建物の面積を広げる平安時代の工法だという。同庁の担当者は「祇園祭を担う京都の人々が積極的に費用を出し維持に関わってきた点にも、文化史的意義がある」と話す。
重要文化財に答申された旧神奈川県立近代美術館は、鶴岡八幡宮の境内にあり、日本初の公立近代美術館として1951年に建設された。モダニズム建築の巨匠・ル・コルビュジエに師事した坂倉準三(1901~69)が設計し、「日本の戦後モダニズム建築の出発点」として評価される。
2016年の閉館後は存続が危ぶまれたが、土地を所有する八幡宮が改修し、昨年「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として開館した。保存のめどが立ち、答申となった。
北太平洋航路のための最初の灯台となった犬吠埼(いぬぼうさき)灯台(千葉県銚子市)など明治初めに建てられた4カ所の灯台も、重要文化財(重文)に指定される見通しになった。海上保安庁が管理する現役灯台では初めて。2018年の文化財保護法改正で、修理手続きなどが一部緩和されたことが後押しとなったという。
重文の新規・追加指定は次の通り。文化審議会は、重要伝統的建造物群保存地区の選定も答申した。
【重要文化財】旧札幌控訴院庁舎(札幌市)▽犬吠埼灯台(千葉県銚子市)▽明治神宮(東京都渋谷区)▽旧神奈川県立近代美術館(神奈川県鎌倉市)▽旧山岸家住宅(石川県白山市)▽旧中村家住宅(長野県塩尻市)▽坂戸橋(同県中川村)▽八勝館(名古屋市)▽紅葉谷川庭園砂防施設(広島県廿日市市)▽六連島灯台(山口県下関市)▽角島灯台(同)▽犬伏家住宅(徳島県藍住町)▽部埼灯台(北九州市)▽旧伊藤家住宅(福岡県飯塚市)▽西海橋(長崎県佐世保市、西海市)▽旧綱ノ瀬橋梁(きょうりょう)及び第三五ケ瀬川橋梁(宮崎県延岡市、日之影町)◇追加指定として八坂神社の疫神社本殿など(京都市)、遠山家住宅の米蔵など(京都府亀岡市)
【重要伝統的建造物群保存地区】高岡市吉久伝統的建造物群保存地区(富山県)▽津山市城西伝統的建造物群保存地区(岡山県)▽矢掛町矢掛宿伝統的建造物群保存地区(同)
まず、鎌倉の旧神奈川県立近代美術館。
昭和26年(1951)に開館、光太郎と交流の深かった土方定一が2代目館長を務め、光太郎が歿した昭和31年(1956)には、初の「高村光太郎・智恵子展」が開催されました。
永らく「カマキン」の愛称で親しまれましたが、平成28年(2016)に惜しまれつつ閉館。最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」では、光太郎作品も複数展示して下さいました。
コルビジェに師事した板倉準三設計のモダニズム建築ながら、土地の使用権の問題などもあったため、一時は建物の存続も危ぶまれていたのですが、無事、残ることとなりました。喜ばしいかぎりです。現在は鶴岡八幡宮さんに所有が戻り、「鎌倉文華館鶴岡ミュージアム」として運用されています。
『毎日新聞』さんの神奈川版から。
近代建築の出発点 「旧県立近代美術館」国重文に 鎌倉・鶴岡八幡宮境内 撤去の危機乗り越え /神奈川
鎌倉市の鶴岡八幡宮境内にある「旧県立近代美術館」が国の重要文化財(建造物)に指定される。設計は近代建築の巨匠、ル・コルビュジエに師事した坂倉準三(1901~69年)。撤去の計画もあったが、美術ファンらの要望で当地に残され、現在は「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として公開されている。モダニズム建築の傑作は撤去の危機を乗り越え、新たな歴史を刻む。【因幡健悦】
旧県立近代美術館は日本初の公立近代美術館として51年11月に鶴岡八幡宮境内の一角に建設された。白い箱を柱で持ち上げたような外観が特徴で、59年に開館したコルビュジエ設計の世界遺産、国立西洋美術館(東京・上野)にも影響を与えたとされる。展示企画にも意欲的で、ムンクやクレーを紹介し人気を集めたが、県立近代美術館の葉山町移転などに伴い、2016年の閉館が決まった。敷地が境内にあるため、美術館としての役割を終えた後は、更地にして鶴岡八幡宮に返却される予定だった。
しかし、美術ファンや県民から存続を求める声が相次ぎ、鶴岡八幡宮が建物を引き取り、耐震補強など必要な工事を進めることになった。 工事は17年秋に始まり、坂倉のオリジナルデザインの再現を基本に進められた。モノトーンが流行した91年の大規模改修で、グレー主体に塗り替えられていた柱や扉はオリジナルに近い66年当時の茶色に戻されている。
しかし、美術ファンや県民から存続を求める声が相次ぎ、鶴岡八幡宮が建物を引き取り、耐震補強など必要な工事を進めることになった。 工事は17年秋に始まり、坂倉のオリジナルデザインの再現を基本に進められた。モノトーンが流行した91年の大規模改修で、グレー主体に塗り替えられていた柱や扉はオリジナルに近い66年当時の茶色に戻されている。
国の文化審議会では「戦後モダニズム建築の出発点となる建物として重要」と、その意匠が評価された。鎌倉市の国指定重文(建造物、国宝含む)はこれで23 件目となるが、近代建築の指定は初めて。
もう1件、大正元年(1912)に光太郎智恵子が訪れ、愛を誓った千葉銚子の犬吠埼に聳える犬吠埼灯台も指定される見通しですが、そちらについては明日。
【折々のことば・光太郎】
何時頃出来上るか……それは同じ大きさのもので三ヶ年かゝるものもあれば一月(ひとつき)位で出来るものもあり、まだ、其んな事は一切考へてゐません。
談話筆記「(成瀬先生の)」より
大正8年(1919) 光太郎37歳
「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者の成瀬仁蔵。その胸像の制作依頼を学校から受けた際の談話の一節です。
像は光太郎自身が納得のいくものがなかなかできず、作っては壊し、造っては毀し、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。
画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。