10月14日(水)、東京藝術大学さんで「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝観後、上野駅から東北新幹線に乗り、一路、花卷へ。
午後2時半過ぎ、北上駅で新幹線を降り、レンタカーを借りて今宵の宿にして光太郎もたびたび宿泊した大沢温泉さんへ。
湯治屋(自炊部)で、六畳一間。
部屋の中になぜかコンロ。ガスの自販機付きです。炊事場にあるのは知っていましたが、これまで泊まった部屋にはありませんでした。
窓を開けると豊沢川の清流。
早速ひとっ風呂浴び、腰に手を当ててコーヒー牛乳の一気飲み。正しい「温泉あるある」です(笑)。
その後、8月にオープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんへ。
テナントに入っている焼肉店「味楽苑」さんで、花巻高村光太郎記念館の皆さんと夕食。
1ヵ月分くらいの肉を賞味しました(笑)。
宿に帰り、また温泉に浸かってぐっすり就寝。翌朝も暗いうち、起床と同時に露天風呂。命の洗濯です(笑)。
売店で買い込んでおいたパンで朝食を済ませ、チェックアウト。花巻高村光太郎記念館さんを目指しました。
先週から企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」が始まっています。花巻市総合文化財センターさんにお勤めの佐藤幸泰氏が中心となって構成されています。
光太郎遺品の中から見つかった、光太郎智恵子愛用の毛布が、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査の結果、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認され、その毛布を中心にした展示です。
昨年、2日間限定で、盛岡市の赤レンガ伝統工芸館にて展示されましたが、こちらでは初公開です。
光太郎生前の写真でこの毛布が写っているものがあり、提供しました。中央の横長2枚です。
大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買い、2度の戦火(東京駒込林町、花卷宮沢家)をくぐり抜けて奇跡的に残った逸品です。
その他、直接光太郎に関わるものとしては、岩手ホームスパンの父、及川全三に贈った鎌倉書房『高村光太郎詩集』新装版(昭和26年=1951)。
及川の弟子で、太田村山口出身の戸来幸子(正しくはサツ子)あての光太郎葉書(昭和25年=1950)。
戸来は光太郎に山小屋の土地を提供した駿河家の血縁。光太郎の山小屋に再三届け物などで訪れ、光太郎の日記にその名が頻出します。駿河家でホームスパン製作や講習に取り組んでいましたが、戸来は北海道に嫁ぎ、旧太田村ではホームスパンが根付かなかった一因となったように思われます。
智恵子と織物に関しても触れて下さっていました。
岩手は元々ホームスパンの産地として名高く、その伝統は現代まで受け継がれており、その辺りに関する展示も充実していました。
ミュージアムショップでも関連商品。上の方の画像で一筆箋とポストカードのものがありますが、それも販売されています。
展示は11月23日(月)まで。ぜひ足をお運びください。
その後、道の駅はなまき西南さんでのイベント(「光太郎ランチ」お披露目)に参加しましたが、その前に時間がありましたので、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)とその周辺を散策。
「雪白く積めり」詩碑。この地下には光太郎の遺骨ならぬ遺髯(ひげ)が埋まっています。
裏手の智恵子展望台。
柱には生々しい熊の爪痕。
そちこちに、光太郎が愛したキノコや栗。自然が豊かだというのがよく分かりますね。
そうこうしているうちに時間となり、道の駅へ。以下、明日。
【折々のことば・光太郎】
やはり知ることが根本になります。どしどし取り入れて見ききを広くしなければなりません。見るといっても、それはただ上っ面を見るだけでなく、もっと深く掘りさげて、そのなかにある根本をつかむことです。
なるほど。
午後2時半過ぎ、北上駅で新幹線を降り、レンタカーを借りて今宵の宿にして光太郎もたびたび宿泊した大沢温泉さんへ。
湯治屋(自炊部)で、六畳一間。
部屋の中になぜかコンロ。ガスの自販機付きです。炊事場にあるのは知っていましたが、これまで泊まった部屋にはありませんでした。
窓を開けると豊沢川の清流。
早速ひとっ風呂浴び、腰に手を当ててコーヒー牛乳の一気飲み。正しい「温泉あるある」です(笑)。
その後、8月にオープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんへ。
テナントに入っている焼肉店「味楽苑」さんで、花巻高村光太郎記念館の皆さんと夕食。
1ヵ月分くらいの肉を賞味しました(笑)。
宿に帰り、また温泉に浸かってぐっすり就寝。翌朝も暗いうち、起床と同時に露天風呂。命の洗濯です(笑)。
売店で買い込んでおいたパンで朝食を済ませ、チェックアウト。花巻高村光太郎記念館さんを目指しました。
先週から企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」が始まっています。花巻市総合文化財センターさんにお勤めの佐藤幸泰氏が中心となって構成されています。
光太郎遺品の中から見つかった、光太郎智恵子愛用の毛布が、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査の結果、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認され、その毛布を中心にした展示です。
昨年、2日間限定で、盛岡市の赤レンガ伝統工芸館にて展示されましたが、こちらでは初公開です。
光太郎生前の写真でこの毛布が写っているものがあり、提供しました。中央の横長2枚です。
大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買い、2度の戦火(東京駒込林町、花卷宮沢家)をくぐり抜けて奇跡的に残った逸品です。
その他、直接光太郎に関わるものとしては、岩手ホームスパンの父、及川全三に贈った鎌倉書房『高村光太郎詩集』新装版(昭和26年=1951)。
及川の弟子で、太田村山口出身の戸来幸子(正しくはサツ子)あての光太郎葉書(昭和25年=1950)。
無事御帰国のおハガキを先日拝見しました、父上からもお便りをいただき恐縮に存じます、
御健康と存じますが、小生も相変らず元気でゐます。
この辺でももう田植がはじまりかかつてゐます、皆忙がしさうです。
ホームスパンを立派に織れるやうになつた技術は今後もすてずに大成されるやうに念じ上げます、御両親によろしく、
戸来は光太郎に山小屋の土地を提供した駿河家の血縁。光太郎の山小屋に再三届け物などで訪れ、光太郎の日記にその名が頻出します。駿河家でホームスパン製作や講習に取り組んでいましたが、戸来は北海道に嫁ぎ、旧太田村ではホームスパンが根付かなかった一因となったように思われます。
智恵子と織物に関しても触れて下さっていました。
岩手は元々ホームスパンの産地として名高く、その伝統は現代まで受け継がれており、その辺りに関する展示も充実していました。
ミュージアムショップでも関連商品。上の方の画像で一筆箋とポストカードのものがありますが、それも販売されています。
展示は11月23日(月)まで。ぜひ足をお運びください。
その後、道の駅はなまき西南さんでのイベント(「光太郎ランチ」お披露目)に参加しましたが、その前に時間がありましたので、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)とその周辺を散策。
「雪白く積めり」詩碑。この地下には光太郎の遺骨ならぬ遺髯(ひげ)が埋まっています。
裏手の智恵子展望台。
柱には生々しい熊の爪痕。
そちこちに、光太郎が愛したキノコや栗。自然が豊かだというのがよく分かりますね。
そうこうしているうちに時間となり、道の駅へ。以下、明日。
【折々のことば・光太郎】
やはり知ることが根本になります。どしどし取り入れて見ききを広くしなければなりません。見るといっても、それはただ上っ面を見るだけでなく、もっと深く掘りさげて、そのなかにある根本をつかむことです。
談話筆記「高村光太郎先生説話 三二」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳
なるほど。