岡山県から展覧会情報です。
守衛の親友だった光太郎の作品も出ます。ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)。台東区の朝倉彫塑館さんの所蔵で、光太郎生前に鋳造されたと確認できている3点のうちの一つです。したがって台座の木彫部分も光太郎の手になるもので、他の2点(竹橋の国立近代美術館さん、髙村家)に伝わるものと比べ、高さが高いのが特徴です。ご覧になる方は、この台座にも注目して下さい。
それ以外に、以下の光太郎作品も出るそうです。すべてブロンズです。
・「獅子吼」(明治35年=1902 東京藝術大学蔵)
・「裸婦坐像」(大正6年=1917 呉市美術館蔵)
・「腕」(大正7年=1918 碌山美術館蔵)
・「老人の首」(大正14年=1925 東京国立博物館蔵)
・「黒田清輝胸像」(昭和7年=1932 東京藝術大学蔵)
追記 電話で問い合わせた際に教えていただいたのは6点でしたが、図録には更に「園田孝吉像(大正4年=1915 碌山美術館蔵)」も掲載されていました。
というわけで、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
金閣寺には美術品がそんなにありませんが、襖の絵にはいいものがあったと思います。金箔を塗った建物というので珍しいのですが、金箔を塗ったものに、本当に優れているものは少ないのです。
金閣寺が放火で焼失した翌日に語った内容です。中尊寺金色堂にしてもそうでしたが、光太郎、金ピカの建造物や造形作品にはあまり価値を見出していませんでした。クリムトについても今のところ言及した文章等は確認できていません。
ところが、この2年後には、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作にかかり、その案はすぐに撤回したものの、当初は像に金箔を焼き付け、湖水の中に沈めるという構想もありました。
特別展「没後110年 荻原守衛〈碌山〉―ロダンに学んだ若き天才彫刻家―」
期 日 : 2020年10月9日(金)~11月29日(日)
会 場 : 岡山県井原市井原町315
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、祝日の場合は開館し、翌日が振替休館)
料 金 : 個人:800円(640円)( )内は前売券、および20名以上の団体
荻原(おぎはら)守衛(もりえ)(号 碌山ろくざん、1879~1910)は、長野県南安曇郡東穂高村(現 安曇野市穂高)に生まれ、留学先のパリでロダンの《考える人》に接し彫刻家になることを決意します。帰国後は、ロダンの影響を受けながら独自の彫刻を模索し、文展に《文覚》や《北条虎吉胸像》などの意欲的な作品を発表しましたが、30歳の若さで没しています。
明治時代後期に登場した荻原守衛は、帰国後わずか2年の活動期間ながら、日本彫刻界にロダニズムの新風を吹き込みました。荻原と親交のあった高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎といった同時代の彫刻家たちも、ロダンと荻原の存在によって自己の芸術を開花させ、大正期の彫刻界で頭角を現していきます。
本展では、荻原守衛の全彫刻15点を始めとするブロンズ、素描、油彩画を展示し、彼の追求した芸術を検証すると共に、同時代に活躍した彫刻家、画家の作品をご覧いただくことにより、明治後期から大正へと続く日本近代美術の流れをたどります。
出品作品
荻原守衛《デスペア》公益財団法人碌山美術館蔵
荻原守衛《女》公益財団法人碌山美術館蔵
荻原守衛《文覚》公益財団法人碌山美術館蔵
荻原守衛《北条虎吉胸像》東京国立博物館蔵
ロダン《考える人》 おかざき世界子ども美術博物館蔵
高村光太郎《手》 台東区立朝倉彫塑館蔵
中原悌二郎《若きカフカス人》東京国立近代美術館蔵
中村 彝《少女習作》 株式会社 中村屋蔵
朝倉文夫《吊された猫》台東区立朝倉彫塑館蔵
他 ブールデル、マイヨール、戸張孤雁など 展示作品総数 71点
かつて「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の巡回先だった、岡山の井原市立田中(でんちゅう)美術館さんでの特別展です。同館は、基本、光太郎の父・光雲の高弟の一人、平櫛田中の個人美術館ですが、このように時折、関連する作家の展覧会なども開いて下さっています。他 ブールデル、マイヨール、戸張孤雁など 展示作品総数 71点
守衛の親友だった光太郎の作品も出ます。ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)。台東区の朝倉彫塑館さんの所蔵で、光太郎生前に鋳造されたと確認できている3点のうちの一つです。したがって台座の木彫部分も光太郎の手になるもので、他の2点(竹橋の国立近代美術館さん、髙村家)に伝わるものと比べ、高さが高いのが特徴です。ご覧になる方は、この台座にも注目して下さい。
それ以外に、以下の光太郎作品も出るそうです。すべてブロンズです。
・「獅子吼」(明治35年=1902 東京藝術大学蔵)
・「裸婦坐像」(大正6年=1917 呉市美術館蔵)
・「腕」(大正7年=1918 碌山美術館蔵)
・「老人の首」(大正14年=1925 東京国立博物館蔵)
・「黒田清輝胸像」(昭和7年=1932 東京藝術大学蔵)
追記 電話で問い合わせた際に教えていただいたのは6点でしたが、図録には更に「園田孝吉像(大正4年=1915 碌山美術館蔵)」も掲載されていました。
というわけで、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
金閣寺には美術品がそんなにありませんが、襖の絵にはいいものがあったと思います。金箔を塗った建物というので珍しいのですが、金箔を塗ったものに、本当に優れているものは少ないのです。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一七」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳
金閣寺が放火で焼失した翌日に語った内容です。中尊寺金色堂にしてもそうでしたが、光太郎、金ピカの建造物や造形作品にはあまり価値を見出していませんでした。クリムトについても今のところ言及した文章等は確認できていません。
ところが、この2年後には、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作にかかり、その案はすぐに撤回したものの、当初は像に金箔を焼き付け、湖水の中に沈めるという構想もありました。