花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示です。
1 光太郎と智恵子とホームスパン
高村が生きた時代とともに、バーナード・リーチとの交友関係、智恵子と織物などのエピソードを紹介します。
2 山口での試み
戦後、太田村山口に移り住んだ高村は「日本最高文化の集落」を10年計画で太田村山口に作ろうとし、「青年たちには陶芸作りをさせる、娘たちには羊を飼わせ植物染料、手紬、手織りの本格的なホームスパンを作らせる」と語ります。高村が山口に見た夢と試みについて、ホームスパンを中心に紹介します。
3 夢の行方
高村が愛用した猟人服の製作に関する物語や盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)との関わりなど、試みのその後について紹介します。
メインは、光太郎遺品の中にあった毛布。光太郎の日記の中に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認されました。
現物は昨秋、2日間限定で、盛岡市の赤レンガ伝統工芸館にて展示され、拝見して参りました。まぁ、それ以前にも光太郎記念館さんで手にとって見せていただいたりしていたのですが。
また、光太郎記念館さんの別館的な「森のギャラリー」では、紙に印刷した複製を展示したりもしていました。

高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-
期 日 : 2020年10月5日(月)~11月23日(月・祝)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体
小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体
「ホームスパン」 とは、 「家」 と 「紡ぐ」 の英単語からなる言葉で、日本では、羊毛を手紡ぎ ・ 手織りした織物がホームスパンと呼ばれています。
太平洋戦争で花巻へ疎開した高村光太郎の日記や手紙には 「ホームスパン」 という言葉が散見されます。また、山口集落でホームスパン作りの手伝いをした際に「ホームスパンは手の先で始まり、最後の仕上げまで手先でやるのが特徴だ、染色も化学染料でなく天然産のものを用いるがよい」 と、語った逸話も残されています。
平成28年11月、高村光太郎の遺品の中から、色鮮やかなホームスパンの毛布が見つかりました。近年の調査で英国の著名な染織家であるエセル ・ メレの毛布と分かり、これを機に高村光太郎とホームスパンの物語も少しずつ分かってきました。
高村光太郎記念館では、見つかった毛布とともに、これまで注目されなかった光太郎とホームスパンにスポットを当てた企画展を行います。高村光太郎とホームスパンの優しくて温かい物語をご覧ください。
1 光太郎と智恵子とホームスパン
高村が生きた時代とともに、バーナード・リーチとの交友関係、智恵子と織物などのエピソードを紹介します。
2 山口での試み
戦後、太田村山口に移り住んだ高村は「日本最高文化の集落」を10年計画で太田村山口に作ろうとし、「青年たちには陶芸作りをさせる、娘たちには羊を飼わせ植物染料、手紬、手織りの本格的なホームスパンを作らせる」と語ります。高村が山口に見た夢と試みについて、ホームスパンを中心に紹介します。
3 夢の行方
高村が愛用した猟人服の製作に関する物語や盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)との関わりなど、試みのその後について紹介します。
メインは、光太郎遺品の中にあった毛布。光太郎の日記の中に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認されました。
現物は昨秋、2日間限定で、盛岡市の赤レンガ伝統工芸館にて展示され、拝見して参りました。まぁ、それ以前にも光太郎記念館さんで手にとって見せていただいたりしていたのですが。
また、光太郎記念館さんの別館的な「森のギャラリー」では、紙に印刷した複製を展示したりもしていました。

大正末か昭和初め、メレの作品展(バーナード・リーチらとの共同展)が日本で開催された際、智恵子にせがまれで購入したと、この地でホームスパン制作に従事していた女性が光太郎から聴いたという証言が残っています。
昭和20年(1945)、東京(4月13日)と花巻(8月10日)で2回の空襲に遭った光太郎ですが、この毛布、奇跡的にその難を回避しました。東京では、事前に布団類は防空壕に入れておいたとのことで、その中にこれも含まれていたのでしょう。
昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外旧太田村の山小屋から再上京した光太郎ですが、この毛布も持って行くか、送るかしまして、中野の貸しアトリエで撮られた写真に写っています。
光太郎歿後、他の遺品の一部と共に、花巻光太郎記念会に寄贈され、長い間倉庫に眠っていたのが、平成28年(2016)になって、日の目を見たというわけです。
光太郎とも交流のあった柳宗悦によって提唱された民芸運動の一環として、岩手では元々、ホームスパン制作が盛んで、現代にもその伝統が継承されています。その作家で、やはり光太郎と交流のあった及川全三やその弟子筋、さらに光太郎記念館で常設展示されているホームスパンによる光太郎の猟人服などについても展示が為されるそうです。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
岩手の人はおっとりしています。気長ですが、お終いには必ずやってのけます。岩手からきっといいのがでるように思います。
頼んだホームスパンの制作がなかなか出来なかったことなどを念頭に置いての発言でしょう。しかし、待たされて待たされて、やっと出来上がったその出来栄えは予想していた以上に素晴らしいということで、「お終いには必ずやってのけます」と言ったわけです。
昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外旧太田村の山小屋から再上京した光太郎ですが、この毛布も持って行くか、送るかしまして、中野の貸しアトリエで撮られた写真に写っています。

光太郎とも交流のあった柳宗悦によって提唱された民芸運動の一環として、岩手では元々、ホームスパン制作が盛んで、現代にもその伝統が継承されています。その作家で、やはり光太郎と交流のあった及川全三やその弟子筋、さらに光太郎記念館で常設展示されているホームスパンによる光太郎の猟人服などについても展示が為されるそうです。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
岩手の人はおっとりしています。気長ですが、お終いには必ずやってのけます。岩手からきっといいのがでるように思います。
談話筆記「高村光太郎先生説話 一五」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳
頼んだホームスパンの制作がなかなか出来なかったことなどを念頭に置いての発言でしょう。しかし、待たされて待たされて、やっと出来上がったその出来栄えは予想していた以上に素晴らしいということで、「お終いには必ずやってのけます」と言ったわけです。