智恵子の故郷・福島は二本松がらみです。
まず、彼の地で智恵子顕彰に取り組んでいらっしゃる智恵子の里レモン会さんから会報が届きました。
表紙の集合写真を含め、昨年10月の智恵子を偲ぶ第25回レモン忌のレポートが中心です。
今年はコロナ禍のため中止だそうで、実に残念です。4月の連翹忌の集いも中止にいたしまして、その頃はレモン忌では皆さんに会えるだろう、と思っていたのですが……。
来年以降に期待します!
ついでといっては何ですが、地方紙『福島民友』さんの記事をご紹介します。光太郎智恵子には直接関わりませんけれど。
8月30日(日)の掲載でした。智恵子生家/智恵子記念館にほど近い道の駅安達「智恵子の里」の近況ですね。先月のこのブログでご紹介した「コロナに負けず! 地域元気回復! 豪華景品が当たる!にほんまつグルッと一周スタンプラリー」の件にも触れられています。
さらについでといっては何ですが、もう1件、その前日のやはり同紙から。
上川崎和紙を使っての卒業証書づくり、地域の伝統工芸の伝承にもつながるわけで、いい取り組みですね。
11月には彼の地で市民講座の講師を仰せつかっており、久しぶりに行って来る予定です。今後、新たにパンデミック的な事態にならぬことを心から祈念いたしております。
【折々のことば・光太郎】
まず、彼の地で智恵子顕彰に取り組んでいらっしゃる智恵子の里レモン会さんから会報が届きました。
表紙の集合写真を含め、昨年10月の智恵子を偲ぶ第25回レモン忌のレポートが中心です。
今年はコロナ禍のため中止だそうで、実に残念です。4月の連翹忌の集いも中止にいたしまして、その頃はレモン忌では皆さんに会えるだろう、と思っていたのですが……。
来年以降に期待します!
ついでといっては何ですが、地方紙『福島民友』さんの記事をご紹介します。光太郎智恵子には直接関わりませんけれど。
魅力的オリジナル商品 道の駅安達「智恵子の里」・二階堂貴子さん
【二本松】特産物や名所など訪問先の魅力と出合える道の駅。その中で上下線ともに施設があるのは珍しい。上り線に紙すきが体験できる和紙伝承館、下り線に広い芝生広場などがあり、それぞれ異なる楽しみ方もできる。
「行きたいと思う魅力にしたい」。オリジナル商品の開発に取り組み、年に5、6品を送り出す。
今月には2商品を発売した。その一つが「野菜チップス」。7種の野菜を素揚げし、純米大吟醸の酒かすで作った「酒塩」で味を調えた。売れ行きは好調。「人に贈りたいと思ってもらえるよう味にこだわる。ぜひ食べてみて」。
市内には安達とふくしま東和、さくらの郷と道の駅が三つある。これらを巡るスタンプラリーも開催中。「施設ごとに地域の特色があり、その魅力を確かめてほしい」とアピールした。
8月30日(日)の掲載でした。智恵子生家/智恵子記念館にほど近い道の駅安達「智恵子の里」の近況ですね。先月のこのブログでご紹介した「コロナに負けず! 地域元気回復! 豪華景品が当たる!にほんまつグルッと一周スタンプラリー」の件にも触れられています。
さらについでといっては何ですが、もう1件、その前日のやはり同紙から。
伝統の「上川崎和紙」で自分の卒業証書 安達中3年生が紙すき
安達中3年生は26日、二本松市・道の駅安達「智恵子の里」内の市和紙伝承館で、千年以上の歴史を持つ地元の工芸品「上川崎和紙」で卒業証書を作る手すき体験に取り組んだ。 同校は地元の伝統技術に親しむことを目的に毎年、3年生が自分の卒業証書を制作する。本年度は109人で、このうち3年2組の27人は、市和紙伝承館の地域おこし協力隊の菅野公幸さんの指導で、紙すきに挑戦。
砕いたコウゾが入れられた水槽ですき桁を揺すり和紙をすいた。紙に厚みを出すため生徒たちは紙を3度すいて1枚の卒業証書の紙に仕上げた。
上川崎地区から通う生徒(14)は「一生の思い出になる卒業証書なので緊張して最初は失敗したけど、最後は上手にできた」と笑顔を見せた。その上で「多くの人に紙すきを体験し、上川崎和紙を知ってほしい」とアピールした。
上川崎和紙を使っての卒業証書づくり、地域の伝統工芸の伝承にもつながるわけで、いい取り組みですね。
11月には彼の地で市民講座の講師を仰せつかっており、久しぶりに行って来る予定です。今後、新たにパンデミック的な事態にならぬことを心から祈念いたしております。
【折々のことば・光太郎】
世界はうつくし 短句揮毫 昭和22年(1947) 光太郎65歳
埼玉県東松山市の教育長を務められていた故・田口弘氏旧蔵(現在は同市に寄贈)の色紙から。
昭和22年8月23日、花巻郊外旧太田村の山小屋で揮毫されたもの。田口氏はこれに先立つ同19年(1944)、南方への出征に際して駒込のアトリエを訪問、同じ句と「うつくしきもの満つ」の揮毫を貰い、さらに 日章旗へ署名をしてもらったそうです。しかし、南方戦線で氏の乗った輸送船が撃沈され、三点の書は海の藻屑となってしまいました。戦後、無事復員された氏が太田村の山小屋を訪ね、再度揮毫をして貰ったうちの一点です。
詩の題名としては「美」を漢字で書いた「世界は美し」という詩(昭和16年=1941)があるのですが、ひらがなで「うつくし」と書いたものは他に類例を確認できていませんので、短句として登録しました。
戦時中と、戦後になってから、それぞれの時点で光太郎がどういう思いで「世界はうつくし」と書いたのか、実に興味深いところです。
戦時中と、戦後になってから、それぞれの時点で光太郎がどういう思いで「世界はうつくし」と書いたのか、実に興味深いところです。