『毎日新聞』さん、今月2日の夕刊文化面に掲載された記事です。 

大岡信と戦後日本/28 折々のうた 詩歌の喜びと驚きを示す

003 大岡信のコラム「折々のうた」は、1979年1月から2007年3月まで朝日新聞に連載された。古今の短歌、俳句、詩や歌謡の一節を掲げ、鑑賞を180字の短文でつづるという前例のない企画だった。何度かの休載期間を挟みながら足かけ29年、休刊日を除く毎日続き、計6762回に及んだ(『新 折々のうた9』07年)。
 「折々のうた」といえば朝刊1面のイメージだが、スタート時は最終面に載っていた。同紙創刊100周年の79年1月25日朝刊から曽野綾子氏の連載小説「神の汚れた手」が始まるが、「折々のうた」はその左横の小さなスペースに置かれた。「現代の万葉集」とも呼ばれた大アンソロジーの出発はささやかだった。
  第1回は高村光太郎(1883~1956年)の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」。解説する大岡の文章の一部を引く。
 <美校生だった彼が、明治三十九年二月、 彫刻修業のため渡米したとき、船中で作ったもの。(中略)高村青年は緊張もしていただろう。不安と希望に胸を騒がせてもいただろう。けれど歌は悠揚のおもむきをたたえ、愛誦(あいしょう)に堪える>
  美校は東京美術学校(現・東京芸術大)。詩集『道程』『智恵子抄』で名高い詩人の、 わざわざ若き日の短歌を初回に出したところに並々ならぬ意欲がうかがえる。翌日以降は江戸中期の俳人、加舎白雄(かやしらお)の俳句、上田秋成(江戸中期の文人)の短歌、白居易(唐代の詩人)の漢詩と続く。時代もジャンルも実に多様だ。
 当時の同紙編集幹部が最終面の扱いを「もったいない」と考え、3カ月余り後の5月から1面に移す。これで話題となり、翌80年に菊池寛賞を受賞する。また1年分を加筆・修正してまとめ、岩波新書で刊行する形を取ったことも読者を広げた(総索引を含めシリーズ計21冊)。
 ところで、「折々のうた」が始まった時、記者は高校2年。その頃同紙を読んでいたが、存在を意識したのは1面に移った3年の時だった。 詩の魅力が、わずか2行の引用で表現されているのに目を見張った。
 例えば宮沢賢治(1896~1933年)の「海だべがど おら おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」(「高原」)。大岡は、「ホウ/髪毛(かみけ)風吹けば/鹿(しし)踊りだぢやい」と続くことを紹介したうえで、こう記す。<詩全体は、海かなと思ったが、やっぱり光る山だったぞ、風が吹けば、鹿踊りにかぶる面の髪みたいに、髪が踊るぞ、という意味だろう。(中略)この方言詩は生きている>(新書版『折々のうた』)。
 詩のリズム感とともに、凝縮された解説文から読者は「生きている」詩の脈動を感じ取ることができる。同様に、このコラムを窓として詩の世界の豊かさを見た人々は多くいただろう。 詩人の蜂飼耳さん(46)は小学生の頃、既にあったこの欄に、自然になじんでいたという。「『折々のうた』は、ジャンルの垣根を取り払い、時代や言語を超えて詩歌の『喜び』と『驚き』が併存することを可能にした方法そのものだった」。確かに欧米その他の翻訳詩も取り上げられた。
 大岡自身は出発時点の思いを「『日本詩歌の常識づくり』。和歌も漢詩も、歌謡も俳諧も、今日の詩歌も、ひっくるめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫」と述べていた(同書あとがき)。それが長く人々を引き付けたのは、彼が「硬直しない感受性の持ち主」で「言葉と詩の関係を、先入観なく根本から考えることのできる人」(蜂飼さん)だったからだろう。
 連載が終わった後、作家の丸谷才一(25~12年)は毎日新聞に、新書シリーズ全巻を対象とする書評を寄せ、「コラムの成功」を勅撰(ちょくせん) 和歌集になぞらえた。「共同体が詞華集(アンソロジー)によって詩情を教える風習は、明治維新によって残念ながら断絶された。大岡信の『折々のうた』は(中略)長きにわたるわが短詩形文学の富を誇っている」(07年12月2日朝刊)
 その「成功」は新聞界に広く影響を及ぼし、 ヒントにした欄が各紙に登場した。では、「折々のうた」はどんな時代に、いかなる問題意識によって取り組まれたのか。

同紙では昨年から月イチ005の連載で「大岡信と戦後日本」が掲載されており、その第28回。氏の業績の一つ、『朝日新聞』さんに連載された伝説のコラム「折々のうた」が取り上げられています。他紙のコラムについてその意義を実に好意的に評していて、『毎日』さんの懐の深さといいますが、そういうものを感じますね。

その「折々のうた」、記念すべき第一回で大岡氏が取り上げたのが、光太郎短歌「海にして……」。この歌、光太郎短歌の中では代表作の一つといっていい詠です。

それが大岡氏の没後、単に「高村光太郎の代表的短歌」というだけでなく、「大岡信氏が「折々のうた」連載の第一回で取り上げた歌」という新たな評が付け加わったような感もあります。

今後とも、大岡氏の業績と共に、語り継がれていって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

口語歌は既に成り立つてゐると思ふ。在来の歌と両立してゆくのに何の不思議も無い。生活内容と感じ方とモチヴとが互に相違してゐるだけの事で、どちらが抹殺せられる事も出来ない時代に僕たちは生きてゐる。

アンケート「口語歌をどう見るか(批判)」全文
大正14年(1925) 光太郎43歳

明治39年(1906)詠の「海にして……」はまだ文語歌ですが、大正に入ると光太郎も口語歌を量産するようになります。ほとんどは雑誌『明星』(第二次)に寄せたものでした。

このブログの平成28年(2016)の1年間、大岡氏の「折々のうた」のパクリで【折々の歌と句・光太郎】と題し、366(閏年でしたので)の光太郎短歌・俳句・川柳などの定型作品を毎日1つずつ紹介しました。暇な時にでもお目通し下さい。