まずは昨日に続き、智恵子の故郷・福島二本松・安達太良山ネタです。
今月号の『広報にほんまつ』、表紙が安達太良山系の薬師岳パノラマパーク。
ロープウェーの山頂駅に近く、「この上の空がほんとの空です」という木標が建っています(画像では中央やや左)。
続いて「“菊”と“日本酒”と“温泉”と… にほんまつの観光DMO ~ともに磨く「にほんまつ」ブランド~」という記事が4ページ。
「DMO」とは、「Destination Management Organisation」の略だそうで、「観光戦略を練って交流人口拡大を目指していく組織」といった意味だそうです。一般社団法人として平成30年(2018)に設立されたとのこと。
最近、役所まかせではないこうした動きが広がっているように感じます。
こちらでは「にほんまつブランド」ということで、「日本酒」、「ワイン」、「和菓子」、「安達太良山」、そして「岳温泉」の5つを特に推しているそうで、広報でもそうした動きが取り上げられていました。
その中で、「安達太良山」。「智恵子抄」由来の「ほんとの空」の語を使って下さっています。
「ADATARAリトリート」だそうです。「リトリート」は、「日々の忙しい生活から離れて、 自分の時間やリラックスタイムで疲れを癒すこと」。岳温泉さんのホテルなどと提携し、各種プランが設定されています。
当方、11月に彼の地で市民講座の講師を仰せつかっており、現地で調査すべきこともあって、久々に一泊で行ってこようと思っております。ただ、例年、10月に行われている菊人形、それから智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集い、今年はやはり中止だそうですが、コロナ禍収束/終息後、また新たに活況を呈してほしいものです。
続いて光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻の『広報はなまき』。表紙で先月の「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」オープンについて紹介されています。
こちらは今月、やはり市民講座の講師でお邪魔しますので、その際に行って参ります。
皆様もぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
体格よき婦人を求む 当方彫刻家 午前在宅
今月号の『広報にほんまつ』、表紙が安達太良山系の薬師岳パノラマパーク。
ロープウェーの山頂駅に近く、「この上の空がほんとの空です」という木標が建っています(画像では中央やや左)。
続いて「“菊”と“日本酒”と“温泉”と… にほんまつの観光DMO ~ともに磨く「にほんまつ」ブランド~」という記事が4ページ。
「DMO」とは、「Destination Management Organisation」の略だそうで、「観光戦略を練って交流人口拡大を目指していく組織」といった意味だそうです。一般社団法人として平成30年(2018)に設立されたとのこと。
最近、役所まかせではないこうした動きが広がっているように感じます。
こちらでは「にほんまつブランド」ということで、「日本酒」、「ワイン」、「和菓子」、「安達太良山」、そして「岳温泉」の5つを特に推しているそうで、広報でもそうした動きが取り上げられていました。
その中で、「安達太良山」。「智恵子抄」由来の「ほんとの空」の語を使って下さっています。
「ADATARAリトリート」だそうです。「リトリート」は、「日々の忙しい生活から離れて、 自分の時間やリラックスタイムで疲れを癒すこと」。岳温泉さんのホテルなどと提携し、各種プランが設定されています。
当方、11月に彼の地で市民講座の講師を仰せつかっており、現地で調査すべきこともあって、久々に一泊で行ってこようと思っております。ただ、例年、10月に行われている菊人形、それから智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集い、今年はやはり中止だそうですが、コロナ禍収束/終息後、また新たに活況を呈してほしいものです。
続いて光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻の『広報はなまき』。表紙で先月の「道の駅はなまき西南 賢治と光太郎の郷」オープンについて紹介されています。
こちらは今月、やはり市民講座の講師でお邪魔しますので、その際に行って参ります。
皆様もぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
体格よき婦人を求む 当方彫刻家 午前在宅
雑纂「モデル」より 大正3年(1914) 光太郎32歳
彫刻制作において、モデルの手配には常に苦労していました。依頼を受けての肖像彫刻であればその本人をモデルにすればよいのですが、そうでなければ友人知己や行商に来る老人などを拝み倒してモデルになってもらったり、このように新聞広告を出して募集したりもしました。
しかし、応募者はたくさんあったものの、よい体格の者がおらず、逆に「めいめいに窮迫した身上話などを長々と述べ立てて、是非使つてくれといふやうに要請されるので、これを断るのに骨が折れ、おまけにその日一日分の日当を払はなければ、気の毒でかへせなかつた。」(「モデルいろいろ-アトリエにて6・7-」昭和30年=1955)ということでした。
そこでのちには智恵子をモデルにいくつか彫刻を作ったりもしています。ただ、それらはおそらく戦災ですべて失われ、現存が確認できていません。
しかし、応募者はたくさんあったものの、よい体格の者がおらず、逆に「めいめいに窮迫した身上話などを長々と述べ立てて、是非使つてくれといふやうに要請されるので、これを断るのに骨が折れ、おまけにその日一日分の日当を払はなければ、気の毒でかへせなかつた。」(「モデルいろいろ-アトリエにて6・7-」昭和30年=1955)ということでした。
そこでのちには智恵子をモデルにいくつか彫刻を作ったりもしています。ただ、それらはおそらく戦災ですべて失われ、現存が確認できていません。