8月23日(日)、安曇野市豊科近代美術館さんでの「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」を拝見後、次なる目的地へ。長野県は光太郎ゆかりの人物の記念館等が多く、これまでも何かあって長野に行った際には、ほぼ必ずメインの目的地以外にもう1カ所廻ることにしてきました。

今回は諏訪市の信州風樹文庫さん。

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基本的には図書館的な施設なのですが、「岩波茂雄記念室」が併設されています。

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岩波茂雄は岩波書店の創業者。同社と光太郎の縁は深く、昭和8年(1933)に「岩波講座世界文学」シリーズの『現代の彫刻』を書き下ろしで単独執筆し、同シリーズ中の『近代作家論』(6人による共著)ではベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの評伝を寄せています。また、昭和30年(1955)には美術史家の奥平英雄の編集で『高村光太郎詩集』が岩波文庫のラインナップに組み込まれた他、光太郎歿後、『ロダンの言葉抄』(同35年=1960)、『芸術論集 緑色の太陽』(同57年=1982)も同文庫で刊行されました。さらに、同社刊行の雑誌『図書』にも寄稿しています。

そんな縁から、昭和8年(1933)には、ミレーの「種まく人」をあしらった同社のロゴマークの制作を、岩波が光太郎に依頼しています。ところが光太郎作のものは不採用。しかし、そのあたりの経緯が不分明となっているようで、同社では光太郎作ということで通しています。

また、昭和17年(1942)には、岩波書店店歌「われら文化を」の作詞を光太郎が手がけました。作曲は「海ゆかば」などで有名な信時潔でした。各地の学校の校歌作詞を何度依頼されても、その都度かたくなに拒んだ光太郎ですが、岩波の店歌は例外だったようです。ちなみにもう一つの例外が、戦後の昭和26年(1951)に作った「初夢まりつきうた」。こちらは岩手花巻の商店街の歌的なものです。

記念室では「われら文化を」の紹介もありました。ただ、光太郎自身の筆跡ではありませんでしたが。

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ただ、抜粋でした。作詞が戦時下ということもあり、上記以外に「あめのした 宇(いへ)と為(な)す、 かのいにしへの みことのり。」「おほきみかど のりましし かの五箇条の ちかひぶみ。」といったキナ臭い文言が並んでいるのですが、そこはカットされています。

その他、記念室には岩波の遺品類、書簡類、岩波書店の資料などもいろいろ並んでおり、興味深く拝見しました。特に「おっ」と思ったのは、岩波文庫の巻末に必ず載っている「読書子に寄す」の紙型。

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紙型というより、金属活字の版というべきでしょうか、並べた活字を木枠に収めた状態で展示されていました。

000ところで、高田博厚と岩波の縁も深いものがあります。高田がまだ若造だった大正11年(1922)、岩波書店から『ミケランジエロ伝』の翻訳を上梓しました。原典著者はアスカニオ・コンディヴィ。この翻訳依頼は、はじめ光太郎にもたらされたのですが、光太郎は「ミケランジェロなら、高田という若者が詳しい」と、高田を岩波に紹介しました。もっとも、光太郎、英語や仏語と異なり、イタリア語にまでは通じていなかったためということも考えられますが。

その他にも、高田の著書が岩波書店から複数出版されています。そんなこんなで、高田は岩波の肖像も作っています。「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」でも展示されていました。

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さらにいうなら、戦後の昭和35年(1960)、岩波文庫のラインナップに入った光太郎訳の『ロダンの言葉抄』。編集は高田、それから高田同様に光太郎を敬愛していた彫刻家の菊地一雄です。いろいろ不思議な因縁があるものですね。

さて、風樹文庫さんをあとに、すぐ近くの小泉寺さんという寺院へ。

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こちらの一角に、岩波の生家があったそうで。

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建物はもはやありませんが、やはり岩波と縁の深かった安倍能成の筆になる石碑が建っていました。

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曰く「低処高思」。ワーズワースの詩集から採られた岩波の座右の銘の一つだそうです。原文は「Plain living and high thinking」、「質素なる生活、高遠なる思索」といった意味だとのこと。そういえば、光太郎にも「低きに居む」などの言葉があります。

それにしても信州のこの地域、他にも筑摩書房の古田晁臼井吉見など、光太郎と縁の深かった気骨の出版人を多く輩出しています。そういった土地柄なのでしょうかね。ちなみに当方も父方のルーツは信州ですが。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

さういふ人情をのり越えて必死のことを行ふといふのは、ただわきめもふらずに一番貴いことを行ふといふ根本の精神にばかりいきてゐる清らかな心の者だけにできることである。

散文「神風」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

岩波、そして高田博厚など、「わきめもふらずに一番貴いことを行ふといふ根本の精神にばかりいきてゐる清らかな心の者」と言えるのではなかろうかと思いました。