昨日は日帰りで信州に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

メインの目的は、安曇野市の豊科近代美術館さんで開催中の「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」拝観。高田は、早世した碌山荻原守衛を除き、ほぼ唯一、光太郎が心の底から認めていた同時代の日本人彫刻家です。

企画展は6月から始まっており、早々に招待券を戴いていたのですが、やはりコロナ禍の動向を見極めつつ、と思っておりましたところ、終幕ギリギリとなってしまいました。

朝8時過ぎ、愛車を駆って出発。梅雨明け以来、ほとんど雨が無かった南関東も、昨日はところどころでゲリラ豪雨。湾岸線を走っている頃はけっこうな雨でした。当方、稀代の雨男だった光太郎の魂を背負って移動していますので、むべなるかな、です(笑)。

途中、長野道の梓川SAで昼食を摂りました。同SAの展望台から見た上高地方面。

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大正2年(1913)の今頃、光太郎智恵子があの山上で青春を謳歌していたかと思うと、感慨深いものがありました。

到着は12時過ぎ。現地はピーカン(死語ですね(笑))でした。

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4年ぶり2回目の訪問でした。前回もオリンピックイヤーで、カーナビのテレビで水泳競技の様子を見ながら来たっけな、と思い出しました。

入館し、さて、拝見を始めたところ、当方をご存じの学芸員の方がやって来られました。当方が講師を務めた市民講座を2回、お聴き下さっていたそうで。その後は当方一人に対するギャラリートークという何とも贅沢な状態になりました(笑)。

光太郎はその無名時代から高田の才を認め、昭和6年(1931)の渡仏に際しても「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」を立ち上げ、その趣意書で広く援助を募るなどしました。そして実際に高田は国際的な彫刻家として大成。こうした点も光太郎の審美眼の正しさを証明しているのでしょう。

現物の展示はありませんでしたが、パネル(というかタペストリー)展示で、「高田博厚渡仏後援彫刻頒布会」の一節、さらに光太郎から在仏の高田宛の書簡二通カラーコピーの展示が為されていました。ありがたし。

高田は高田で光太郎への敬愛の念は終始持ち続けていたようです。その一つの表れが、今回の展示の目玉の一つである、パリ時代に制作されたトルソ。「カテドラル」と題され、パリ郊外ランスのノートルダム大聖堂からのインスパイアだそうです。ランスのカテドラルといえば、光太郎が敬愛していたロダンが激賞し、光太郎が訳した『ロダンの言葉』にも記述があるもので、ロダン・光太郎への高田からのオマージュと言えるのではないでしょうか。

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そしてもう一つ、昭和34年(1959)、光太郎没後の作ですが、光太郎胸像。高田は光太郎が歿した後に帰国したので、昭和6年(1931)以来、光太郎には会っていません。そこで、立体写真的に「よく似ている」というわけではありませんが、何といいますか、作品の内側から溢れ出る精神性とでもいいますか、そういったものはまさしく光太郎そのものです。

ちなみに上記画像、平成4年(1992)の開館記念に発行された図録から採らせていただきました。その図録も頂戴してしまいまして、恐縮しきりです。200ページ近い大冊で、光太郎との関わりなどについても言及されています。

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右上はおそらく新しく作られたものでしょう、A4サイズのクリアファイル。やはり光太郎像があしらわれています。こちらはちゃんと買いました(笑)。

常設展も拝見。常設でも高田作品がズラッと並んでいる他、森鷗外や高田同様光太郎と交流のあった画家・宮芳平の作品なども展示されています。

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代表作の「椿」、久しぶりに拝見して、その不思議な世界観、やはりいいなと思いました。

「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」は、8月30日(日)までです。

こちら方面へ行った際には、近隣の光太郎と縁のあった芸術家等の記念館なども訪れることにしております。昨日は帰りがけ、諏訪市の信州風樹文庫さんに立ち寄らせていただきました。こちらには岩波書店の創業者・岩波茂雄の記念室が併設されています。そちらに関しては、また明日。

【折々のことば・光太郎】

一生を棒に振る覚悟がなくては偉大な芸術は生れない。

散文「人事を越ゆ神事 日本精神の極致顕現」より
昭和19年(1944) 光太郎62歳

文章全体は、関行雄海軍大尉(戦死後二階級特進で中佐)率いる神風特別攻撃隊敷島隊所属の五名による、レイテ沖での体当たり特攻に関する内容です。

この時期、批判的なことを書けるはずもなく、仕方がないといえばそれまでかもしれませんが、「五勇士の壮挙に深い感動」「ヤンキーどもには理解できない五勇士の精神」などと、肯定的に記しています。

それにしても「特攻」と「芸術」を同列に論じるとは、何をか言わんや、という感じですが……。