静岡は伊東で発行されている同人誌的な総合文芸誌『岩漿』の第28号を戴きました。深謝。
主宰の小山修一氏によるエッセイ「高村光太郎と木下杢太郎」が掲載されており、興味深く拝読しました。
木下杢太郎は本名・太田正雄。光太郎より2歳年少で、伊東の生まれ。医学博士として大学で教鞭をとりつつ、文学や美術で幅広く活躍しました。光太郎同様、その活動の出発点は雑誌『明星』でしたので、近年、明星研究会さんでは杢太郎もよく取り上げられています。さらに文芸運動「パンの会」の中心メンバーでもあり、光太郎との交流は『明星』や「パンの会」を通してのものでした。
それから、智恵子とも交流があったようで、神奈川近代文学館さんには、明治45年(1912)、智恵子が作家の田村俊子と共に開催した「あねさまとうちわ絵」展の、杢太郎に宛てた案内状が所蔵されています。ちなみに同館には光太郎から杢太郎宛の書簡も多数所蔵があります。
さて、小山氏の稿。杢太郎が、評論家で光太郎とも交流があった野田宇太郎に対して語った「高村君は戦争詩ばかり書かされているようだね。もつと本当の詩があるはずだ。それを書かせようではないか」という発言を引く所から始まります。時に太平洋戦争末期、実際、光太郎は愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っていました。昔からの心ある友人は、こうした光太郎に眉を顰めるというか、真剣に心配していたのでしょう。
しかし、そういう杢太郎自身も、光太郎が詩部会長を務めていた日本文学報国会編の翼賛詩集である『辻詩集』(昭和18年=1943)に寄稿しています。ただ、目立った翼賛文学活動はこれだけのようですが。もっとも、既に杢太郎は文学界の第一線からは身を引き、本業の医学者としての活動の方がメインでした。
その杢太郎、終戦直後に病死しています。そこで小山氏、「真の自由への人間解放や人間の尊厳確立、古典研究による教養の獲得などによる人間愛を追求していたユマニテ思想の杢太郎と、厳格に個人主義を標榜していた光太郎。意に反する軍国主義の激動時代を生きた二人が戦後に再会していたなら互いに影響しあい、現代の文化に多大な功績を残したに違いないと思う。」と結ばれています。おそらくその通りですね。
さて、『岩漿』。上記リンクよりお求めいただけると存じます。ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。
主宰の小山修一氏によるエッセイ「高村光太郎と木下杢太郎」が掲載されており、興味深く拝読しました。
木下杢太郎は本名・太田正雄。光太郎より2歳年少で、伊東の生まれ。医学博士として大学で教鞭をとりつつ、文学や美術で幅広く活躍しました。光太郎同様、その活動の出発点は雑誌『明星』でしたので、近年、明星研究会さんでは杢太郎もよく取り上げられています。さらに文芸運動「パンの会」の中心メンバーでもあり、光太郎との交流は『明星』や「パンの会」を通してのものでした。
それから、智恵子とも交流があったようで、神奈川近代文学館さんには、明治45年(1912)、智恵子が作家の田村俊子と共に開催した「あねさまとうちわ絵」展の、杢太郎に宛てた案内状が所蔵されています。ちなみに同館には光太郎から杢太郎宛の書簡も多数所蔵があります。
さて、小山氏の稿。杢太郎が、評論家で光太郎とも交流があった野田宇太郎に対して語った「高村君は戦争詩ばかり書かされているようだね。もつと本当の詩があるはずだ。それを書かせようではないか」という発言を引く所から始まります。時に太平洋戦争末期、実際、光太郎は愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っていました。昔からの心ある友人は、こうした光太郎に眉を顰めるというか、真剣に心配していたのでしょう。
しかし、そういう杢太郎自身も、光太郎が詩部会長を務めていた日本文学報国会編の翼賛詩集である『辻詩集』(昭和18年=1943)に寄稿しています。ただ、目立った翼賛文学活動はこれだけのようですが。もっとも、既に杢太郎は文学界の第一線からは身を引き、本業の医学者としての活動の方がメインでした。
その杢太郎、終戦直後に病死しています。そこで小山氏、「真の自由への人間解放や人間の尊厳確立、古典研究による教養の獲得などによる人間愛を追求していたユマニテ思想の杢太郎と、厳格に個人主義を標榜していた光太郎。意に反する軍国主義の激動時代を生きた二人が戦後に再会していたなら互いに影響しあい、現代の文化に多大な功績を残したに違いないと思う。」と結ばれています。おそらくその通りですね。
さて、『岩漿』。上記リンクよりお求めいただけると存じます。ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。
散文「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」より
昭和18年(1943) 光太郎61歳
昭和18年(1943) 光太郎61歳
上記「愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っ」ていたうちの一篇(こうした作品こそ光太郎文学の真骨頂だ、と、涙を流して有り難がる愚物がいて困るのですが)ですが、部分的には首肯できる部分もあるにはあります。それにしてもキナ臭い匂いがしますが……。