「芸術の秋」、というわけで、光太郎、光雲、智恵子、それぞれの名が少しずつ新聞各紙に出ています。
まず『産経新聞』さんから2件。
1件目は、東京ステーションギャラリーさんで開催中の企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」の紹介です。
「動き出す!絵画 ペール北山の夢」 気鋭、洋画家の活動を支援
「動き出す!絵画 ペール北山の夢」という展覧会が東京ステーションギャラリー(東京都千代田区)で開かれている。タイトルから動きのある映像的な作品を想像してしまうが、展示されているのは100年ほど前の絵画を中心にした作品だ。
椅子に腰掛ける女性が荒々しい筆致と強烈な色彩で描写された萬鉄五郎の「女の顔」。和装に異国的な毛皮の襟巻きという取り合わせに西洋文化への憧れがみてとれる。絵の具を厚く塗り固め重厚感のある岸田劉生の「黒き帽子の自画像」は、23歳のころの作。すでに文展に入選し、画家として生きる決意の表情が堅牢(けんろう)な画面の中にうかがえる。
彼らのような気鋭の洋画家の活動を手助けしたのが、ペール北山と呼ばれた北山清太郎(1888?1945年)だ。明治時代末から大正時代にかけて、北山は美術雑誌『現代の洋画』を発行。ルノワールら印象派をはじめとする西洋美術とともに、日本の若手画家の紹介に尽力した。
また、高村光太郎らが結成し新進画家の発表の場となった「ヒユウザン(後にフュウザン)会」や、劉生が主宰していた「草土社展覧会」を、資金や運営の面から支えていた。北山は彼らのパトロン的な役割を果たしていたことから、パリでゴッホらの支柱となった画材商のペール・タンギーにちなみ、ペール北山といわれ親しまれていた。
明治末には、文芸雑誌『白樺』が創刊され、セザンヌやルノワールら最新の美術を紹介。大正時代になると西洋留学した芸術家らが本場の美術を伝えた。萬のキュビスム的作品「もたれて立つ人」や劉生の写実を極めた「道路と土手と塀(切通之写生)」など重要絵画が誕生した時代だった。「印象派やポスト印象派から刺激を受け、大正期の絵画は大きく動いた。変革をもたらした画家たちの背後にいた北山の役割は重要」と同ギャラリーの田中晴子学芸室長。展覧会タイトルにはそんな意図が込められている。
後に北山は、美術界を離れ、アニメーション制作に没頭。日本アニメの創始者の一人といわれる。本展では、これまでほとんど知られなかった北山の活動にスポットを当て、北山と関わりのあった画家を紹介。木村荘八や椿貞雄ら希望に満ちた若き画家たちや、日本の画家に衝撃を与えたゴッホやゴーギャンの作品が同時に展示され、熱い時代の雰囲気を伝えている。約130点の展示。(渋沢和彦)
(2016/10/13)
同展は11/6まで。
続いて、今日から始まる大阪堺市の河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」について。
「河口慧海」生誕150年 チベット潜入、3年にわたる日記の実物を初公開 愛用のチベット語辞書やくりぬき日記帳も
明治時代、日本人として初めてヒマラヤ山脈を越え鎖国状態のチベットに入った堺出身の僧、河口慧海(えかい)の生誕150年を記念した「慧海と堺展」が26日から12月4日まで堺市堺区の複数の会場で開かれる。潜入から脱出までを現地で記した明治33、34、35年の3年にわたる日記の実物が、初めて一般公開されるほか、愛用のチベット語辞書や、親友に送った中央をくりぬいた日記帳、彫刻家の高村光雲に制作を依頼した仏像など貴重な品々が並べられる。
慧海はチベットに2回入っているが、33~35年の日記は1回目の潜入から脱出までの体験を記す。35年の日記は今年8月、東京の親族宅で見つかり当初から全17ページの公開が決まっていたが、以前に発見された33年と34年の日記も、生誕150年を記念し公開することになった。
日記は33年3月10日から35年8月17日までで、計91ページ。33年は4ページ、34年も4ページを見開きで見せ、両年のほかのページは冊子状のまま展示。35年は17ページすべての記述を公開する。
日記は、墨で横書きされ、漢字とカタカナでびっしりと記入。慧海は37年に体験をもとに「西蔵(チベット)旅行記」を口述筆記で著した。チベット入りは密入国だったため、具体的な行程にふれていなかったが、33年の日記に詳細なルートの記述があり、潜入ルートが判明した。このほか、ネパール人女性に恋心を抱かれたことなど、人間的な姿も垣間見られる。脱出のくだりでは、関所で薬を買う急用があると嘘をついて突破したことや、人事を尽くして天命を待つ心境などが記されている。
愛用のチベット語辞書は、2回目のチベット入りを終え日本への帰路についた大正4年に、同行した恩師のインド人学者から譲り受けた蔵英辞典。堺市によると、慧海はこの蔵英辞典を使い、蔵日辞典を編纂(へんさん)するために研究を重ねたが、実現できずに他界。辞書には、チベット語や英語、日本語でびっしりと書き込みがある。
このほか、中央がくりぬかれた日記帳も展示される。慧海が、2回目のチベット入り直前に堺の親友に送ったもので、くりぬき部分には、事前に送っていた遺書などが入った箱を開けるための鍵を入れていたとみられている。堺市文化財課の担当者は「2回目のチベット入りも決死の覚悟で、確実に届けるためだったのではないか」と説明する。
高村光雲が制作した仏像は「釈迦牟尼(しゃかむに)仏像」(高さ12・4センチ)。慧海が光雲に要請して昭和3年に制作されたことはわかっているが、詳しい経緯は不明。
日記と仏像、蔵英辞典は堺市博物館(午前9時半~午後5時15分、月曜日休館)で展示。くりぬき日記帳は山口家住宅(午前10時~午後5時、期間中無休)で。清学院(午前10時~午後5時、期間中無休)でも手紙が公開される。
問い合わせは堺市文化財課(電)072・228・7198。
(2016/10/19)
それから智恵子、『福島民報』さんから。こちらも開催中の福島ビエンナーレがらみです。
【福島ビエンナーレ】未来の才能に出合う
福島現代美術ビエンナーレが二本松市で開かれている。国内外から出品されたさまざまな分野の作品を公共施設や店舗に展示する。若い作家らが個性を競う。芸術の「今」に触れるとともに新たな才能との出合いを楽しみ、育てる機会としたい。
ビエンナーレは2年に一度の美術展覧会のことで、県内では福島大教育学部が改編された平成16年、美術を学ぶ学生の力を地域のために生かし、新しい文化を発信しようと始まった。福島市、福島空港、喜多方市などを会場に続いてきた。住民とともにつくる地方発の美の祭典は、全国に知られるようになった。
今回はオノ・ヨーコさんら著名人をはじめ、約80人が制作した絵画や立体、映像など約150点を大山忠作美術館、県立霞ケ城公園の菊人形会場、智恵子の生家、安達ケ原ふるさと村など13カ所に展示している。東日本大震災・東京電力福島第一原発事故に触発された社会性のある作品も並ぶ。福島大の学生らも出展し運営を手伝っている。
まだ無名の若手芸術家にとって、画材などの購入負担はなかなか大変だ。創作意欲が高いほどお金もかかる。人によっては制作に月10万円ぐらいを費やす。作品公開の場が少なく、売ることも難しい。学生の多くは塾講師や飲食店などのアルバイトで賄う。
最大の励みは、多くの人が作品を鑑賞し評価してくれることだという。美術ファンはもちろん一般市民や観光客らの目に触れるビエンナーレは最高の舞台といえる。第一線で活躍する作家と同じ場所に並ぶのは大きな刺激になる。
凄艶[せいえん]な女性の絵で話題を集める日本画家松井冬子さんの作品が大山忠作美術館に展示されている。8年前、初めて福島に出品したことを画集に記録している。有名芸術家の略歴に福島の出展歴が載ることは、美術ファンに対する福島の絶好のアピールになる。
異世界の生き物を描いて人気の銅版画家小松美羽さんは智恵子の生家で、上川崎の和紙を使い、ふすま絵を公開制作した。生命力あふれる画面が見る人を引き込む。ビエンナーレ実行委員長の渡辺晃一福島大教授はこれを機に、智恵子の生家を若い女性芸術家が作品を発表する拠点にできないか-と考えている。「福島から羽ばたいた作家が増えることは、福島の大きな財産になる」とみるからだ。
芸術の秋、各地で美術展が開かれている。福島で育つ若い才能に声援を送ろう。未来に輝く原石が見つかる。今の若者が考えている世界を知る機会にもなる。(佐藤克也)
(2016/10/19)
造形作家として大成することを夢見ていた智恵子の精神を受け継ぐためにも、「智恵子の生家を若い女性芸術家が作品を発表する拠点にできないか」という提言には、耳を傾ける余地がありますね。
小松美羽さんの作品についてはこちら。
『読売新聞』さんでは、光雲の弟子筋に当たる平櫛田中について。
平櫛田中の幻の彫刻、孫落札…100年以上不明
東京都小平市の平櫛田中(でんちゅう)彫刻美術館で、100年以上行方不明となっていた彫刻家・平櫛田中(1872~1979年)の代表作「尋牛じんぎゅう」が公開されている。 田中の孫の同館長・平櫛弘子さん(76)がオークション会社から鑑定依頼を受けたことで存在が分かり、平櫛さん自ら落札した。
「もしかしたら、あの『尋牛』かもしれない」。昨年4月、鑑定を依頼された彫刻作品を前に、平櫛さんと同館学芸員の藤井明さん(48)は興奮を抑えきれなかった。残っていた写真と木目や台座の形が一致したのだ。「長年探していたものがやっと見つかった。これは逃せない」。平櫛さんはオークションで226万円で落札し、今年7月、同館で展示するため市に寄贈した。
岡山県生まれの田中は、大阪の人形師のもとで修業した後、25歳で上京し、高村光雲の門下生となった。一方で美術思想家・岡倉天心の薫陶を受け、天心が創設した日本彫刻会のメンバーでもあった。説明的な表現を省くことで、見る人の想像力をかき立てるという天心の「不完全の美」の思想に、生涯を通じて大きな影響を受けたという。
「尋牛」は、禅の悟りを開く過程を牛を探して飼いならすまでに例えた「十牛図」の、最初の場面を表現した木彫りの作品。真の彫刻とは何か探し求める、田中自身の姿が投影されている。
ひげを生やした老人がとぼとぼ歩いているだけで牛は登場せず、一見すると何の場面なのかわからない。だからこそ、様々な情景を思い起こさせるという「不完全の美」がそこにある。1913年(大正2年)、制作途中の石こう原型を見た天心がとりわけ高く評価し、彫刻が完成したら原型を譲ってほしいと望んだとされる。
しかし、天心は同年9月、完成を待たずに他界。田中は不眠不休で完成させて葬儀に持参し、涙を流して報告したという。今回の鑑定に伴う調査で、田中から寄贈された天心の遺族が保管し、その後、別の人の手に渡っていたこともわかった。
藤井さんは「田中の『尋牛』は当館を含め約10点が現存しているが、天心との絆を象徴する最初の作品は非常に重要だ」と強調し、平櫛さんは「田中にとって特別な思い入れのある作品。多くの人に見てほしい」と話している。
11月6日まで。開館は午前10時~午後4時。火曜日休館。観覧料は一般300円、小中学生150円。問い合わせは同館(042・341・0098)。
(2016/10/24)
記事にある同館学芸員の藤井明氏、連翹忌にご参加いただいています。
最後に、今朝の『朝日新聞』さんに載った集英社さんの広告。他紙にも載っているかもしれません。原田マハさんの新刊『リーチ先生』が大きく紹介されています。
注文しておいた現物は、昨夕届きまして、早速読み始めました。しかし、500ページ近くある大冊なので、まだ読破はしていません。
光太郎の朋友の英国人陶芸家、バーナード・リーチを主人公とした小説で、光太郎や光雲、光太郎実弟の豊周なども登場します。これが実に面白く、このブログを書き終えたら、また読み進めるつもりでおります。
しかし、この広告のコピー文に光太郎が出るとは思っていませんでした。帯文には光太郎の名がなかったもので。
詳細は明日以降、ご紹介いたします。
【折々の歌と句・光太郎】
子供らは道に坐りて我家を自由画にかく並びたらずや
大正15年(1926) 光太郎44歳
「芸術の秋」です。昔は小中学校でも、この時期には写生会的な行事が催されることが多かったように思われます。ただ、昨今は週5日制に伴う行事削減のせいでしょうか、あまり聞かなくなりました。
「子供ら」は、駒込林町アトリエの近所にあった千駄木小学校の児童でしょう。当時としては特異な外観だった光太郎設計のアトリエ、子どもたちにとっては恰好の画題だったのではないでしょうか。