最近、新聞各紙に出た光太郎がらみの記事、コラムをを3本ご紹介します。ネタが少ない時は一つずつご紹介しますが、どうも毎年この時期は「芸術の秋」ということもあり、紹介すべき事項が山積しています。
まずは先月末の『日本経済新聞』さん。東京ステーションギャラリーさんで開催中の企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」 の紹介です。
大正期の美術 裏方に光 「動き出す!絵画」展
東京・丸の内の東京ステーションギャラリーで開催中の「動き出す!絵画」展は、大正期の美術界を裏方として支えた北山清太郎(1888~1945年)の活動に光を当てた展覧会だ。
北山は明治45年(1912)、雑誌「現代の洋画」を創刊、ゴッホ、ゴーギャンなどのポスト印象派や、イタリア未来派などの芸術を紹介する一方で、岸田劉生や木村荘八、高村光太郎らが参加したグループ展の事務方を務め、彼らの活動を支援した。
(以下略、下記画像参照)
同展、なかなか好評のようで、ネット上のさまざまなサイト、ブログ等で紹介されてもいます。光太郎関連では、以前も書きましたが、めったに展示されない油彩の「佐藤春夫像」が出ているため、それについての記述が目につきます。
続いて10/2の『産経新聞』さん。一面コラムに光太郎の名が。
【産経抄】人生を思案… 「8本足」の火星人ならば何と答えるか?
人生について思案するとき、人は夜空に答えを求めるものらしい。高村光太郎は沖天に赤くともった星を見上げ、詠んでいる。〈おれは知らない、人間が何をせねばならないかを。おれは知らない、人間が何を得ようとすべきかを〉と。『火星が出てゐる』という詩の一節にある。
▼答えにより近づこうと試みたのは歌人の窪田空穂(うつぼ)だった。〈宇宙より己れを観(み)よといにしへの釈迦(しゃか)、キリストもあはれみ教へき〉。人も、人がよって立つ大地も夜空が産み落とした子であり孫でしかない。人は何ゆえに-の答えを星たちに問うてきたゆえんだろう。
▼火星への初飛行を2022年にかなえたいと、米国の宇宙ベンチャー企業が計画を公表した。100人以上が乗れる宇宙船の旅は1人約2千万円という。火星移住を含め庶民には縁遠い構想だが、〈宇宙より己れを〉の境地が味わえるなら悪くない買い物ではある。
▼ほんの100年前までは火星人の存在を夢想し、SF小説で襲来におびえる人類だった。今や人口は70億人を超え、温暖化や食糧問題などいさかいの種のはけ口として、火星に答えを求めている。詩情や哲学に乏しい夜空への問い掛けに詩人も歌人も渋面であろう。
▼ここ半世紀の探査で火星人の存在は否定された。「夢を失った」と嘆いたのは、亡き橋本龍太郎元首相である。タコ形をした巨大な頭の中には、高度な知性を蓄えていたとされる。存外、探査など及ばぬ場所に潜み、こちらの動静をうかがっているのかもしれない。
▼人は何ゆえに-の問いに対し、「考える葦(あし)」ならぬ「8本足」ならば何と答えるか。聡明(そうめい)であろう火星人に聞いてみたい気もする。異形のお隣さんをまぶたに浮かべ、秋の夜長に思いを巡らせてみるのも楽しい。
今年5月に火星と地球が大接近した頃、『福井新聞』さんの同じく一面コラムで、同様に「火星が出てゐる」が紹介されていました。
さらに『長崎新聞』さん。やはり一面コラムで、10/3の掲載です。
水や空 ハナ子亡き後
国語の教科書で読んだ記憶があるような。高村光太郎に〈何が面白くて駝鳥(だちょう)を飼ふのだ。〉という問いで始まり〈人間よ、もう止(よ)せ、こんな事は。〉という提言で結ばれる「ぼろぼろな駝鳥」という詩がある▲ダチョウには「四坪半」の動物園の柵は狭すぎる、と詩人は憤りをぶちまける。「眼は遠くばかり見てゐる」と観察の目を凝らし「瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐる」「小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐる」と胸中を代弁する▲「新明解国語辞典」にはひと頃、「動物園」の項に〈多くの鳥獣・魚虫に対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする人間中心の施設〉なる強烈な定義が記され、関係者の反発を呼んだことがあるそうだ▲佐世保市の九十九島動植物園で長く人気を集めていたインドゾウのハナ子が急死した。新たなゾウの飼育には幾つもハードルがあるらしい。かつて詩人や辞書が嘆いた飼育環境が改善に向かっていることも"難題"の一つだ▲「動物園に行こう」。父や母の言葉に胸を弾ませた頃が誰にもある。大きい、かわいい、怖い-さまざまな「いのち」で地球ができていることを、この場所で教わってきた▲佐世保市は園の運営について、年度内に方向性をまとめる方針という。論議を注目したい。(智)
東京井の頭公園で飼育されいた「はな子」かと思ったら、別の個体でした。「ハナ子」は、佐世保の九十九島動植物園(森きらら)で、昭和47年(1972)から飼育されていた象で、9/14に亡くなったそうです。井の頭公園の「はな子」は昭和24年(1949)に来日、やはり今年5月に亡くなりました。
引用されている「ぼろぼろな駝鳥」は、光太郎詩の中では有名な作品の一つですね。
何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢやないか。
頸があんまり長過ぎるぢやないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかりみてゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。
右は戦前に発行された上野動物園の絵葉書です。もしかすると光太郎が見て、この詩のモデルにした個体かも知れません。
ところで、「ぼろぼろな駝鳥」は連作詩「猛獣篇」の一篇ですが、同じ「猛獣篇」には象をモチーフにした詩もあります。
象の銀行
セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツ バンク)にちやりんと入れる。
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。
象がさういふ。
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。
印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。
夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。
大正15年(1926)の作。明治39年(1906)から翌年にかけてのアメリカ留学中の経験を下敷きにしています。画像はニューヨーク時代の光太郎です。
象
象はゆつくり歩いてゆく。
一度ひつかかつた矢来の罠はもうごめんだ。
蟻の様に小うるさい人間どものずるさも相当なものだが、
何処までずるいのかをたのしむつもりで
おれは材木を運んだり芸当をしたり
御意のままになつて居てみたが
この蟻どもは貪欲の天才で
歯ぎしりしながら次から次へと凶器を作つて同志打したり
おれが一を果たせば十を求める。
おれを飼い馴らしたつもりでゐる
がまんのならない根性にあきれ返つて
鎖をきつて出て来たのだ。
今に鉄砲でもうつだろう。
時時耳を羽ばたきながらジヤングルの樹を押し倒して
象はゆつくり歩いてゆく。
昭和12年(1937)の作。翌年には智恵子が肺結核で亡くなります。この頃から光太郎は、世間と縁を切り、智恵子と二人で蟄居のようにアトリエに籠もって芸術制作に邁進していた生活が、智恵子の心の病を招いたとの反省から、逆に積極的に世の中と関わろうとします。ある意味、そうでもしないと自分も心を病んでしまうかもしれないという憂慮もあったとも推定できます。
しかし、その積極的に関わろうとした世の中は、どんどん戦時の泥沼に嵌っていきます。この「象」が書かれた昭和12年(1937)には日中戦争がはじまりました。「人間ども」は植民地支配を進めていた欧米列強、「象」は日本を含めたアジア諸国の象徴として描かれているようにも読み取れます。
「猛獣篇」の詩篇は、初期の「ぼろぼろな駝鳥」の頃は、人間性を抑圧する社会への警句だったものが、のちにはさらに後に乱発された翼賛詩につながるものへと変容していきます。いつの間にか「社会」体「個人」が、「欧米」対「アジア」にすりかわってゆくのです。
国会の施政方針演説で与党議員が総立ちで拍手を送るという、ナチスドイツのような異様な光景が展開されている今、あらためて、このあたりも考えてみたいものです。
【折々の歌と句・光太郎】
ざくろの実木に彫るばかりまるまると枝垂りさがりうれにけらずや
大正13年(1924) 光太郎42歳
一昨日からご紹介している、木彫「柘榴」にかかわるシリーズの一つです。