当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌『トンボ』の第2号が届きました。


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PR誌、というよりは、同社と関連の深い皆さんによる同人誌的な感じなのかも知れません。

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M06uGl0g目次の最後、「詩歌三評 野沢一詩集 木葉童子詩経」で、光太郎に触れられています。
野沢一(はじめ)は、1904(明治37)年、山梨県出身の詩人。昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。光太郎からの返信はほとんどなく、ほぼ一方通行の書信です。ちなみに光太郎からの返信2通は、一昨日訪れた山梨県立文学館さんに所蔵されています。

昭和9年(1934)、野沢は丸太小屋生活の中での詩篇をまとめ、『木葉童子詩経』として自費出版、昭和51年(1976)と、平成17年(2005)に、文治堂書店さんから再刊されました。

今回、『トンボ』に載ったのは、この再刊本を元にした三氏の野沢評。目次には詳細が記されていませんが、酒井力氏の「『木葉童子詩経』をよむ」、曽我貢誠氏で「森と水と未来を見つめた詩人」、古屋久昭氏による「自然と対話し愛した詩人」。それぞれ、光太郎との沢の交流について触れて下さっています。

そのうちの曽我氏から、『トンボ』が送られてきました。多謝。
曽我氏と古屋氏、それから野沢の子息の野沢俊之氏は、連翹忌にご参加いただいております。

さらに、平成25年(2013)、坂脇秀司氏解説で刊行された『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』に関する記述も。坂脇氏も連翹忌にご参加いただいたことがありました。


こうした光太郎と縁のあった文学者と光太郎のつながりに関しても、まだまだいろいろ知られていない事実等がたくさんあることと思われます。それぞれの研究者の方々との連携を図りたいものです。

そうした光太郎と縁のあった文学者の一人、詩人の黄瀛をメインにした、宮沢賢治イーハトーブ館さんの「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を、今日、拝見します。

 今日から2泊3日で、花巻経由の盛岡行きです。今日は花巻に寄って黄瀛展を拝見し、盛岡に。明日は盛岡少年刑務所さんで行われる第39回高村光太郎祭に出席し、講演をして参ります。一般には非公開のイベントですので、ブログではご紹介しませんでしたが、帰ってきましたらレポートいたします。明後日はまた花巻で途中下車、花巻高村光太郎記念館さんに立ち寄ろうと考えております。


【折々の歌と句・光太郎】

きらきらと焼野に長き線路かな    明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学の末期、スイス経由イタリア旅行中の作です。季節的には3月中頃と考えられ、「焼野」は冬枯れた野原という意味なのでしょうが、ゆらゆらと陽炎の立つ焼け付くような野原、と捉えてもいいように思われます。

盛岡、花巻となると、自家用車での移動ではきついので、長い線路の旅になります。この句をしのびつつ、行って参ります。