昨日に引き続き、地方紙『福島民友』さんに載った、当会の祖・草野心平顕彰の記事を。
深い森...奥に沼
光景写した庭
愛着強かった
草野心平記念文学館 常設展示で心平の生涯と作品を紹介するほか、心平やゆかりの文学者などの企画展を開催している=写真。ガラス張りの壁面からは、心平が詩にも詠んだ二ツ箭山(約710メートル)が一望できる。月曜と年末年始休館。(電話)0246・83・0005
当方何度もお邪魔しているいわき市の草野心平記念文学館さん、そこからほど近い心平生家などが取り上げられました。
「串田孫一が、心平に「前から読んでも後ろから読んでも同じ駅名は」「答えはOGAWAGO」だと教えた―との逸話」。郷土愛に溢れていますね(笑)。おそらく串田の用意していた正解は、特にローマ字とは言わなかったとすれば「田端(たばた)」、ローマ字を想定していたのなら「赤坂(AKASAKA)」ではないかと思うのですが(それぞれけっこう有名なので)。
さて、平伏沼、心平記念館さん、心平生家などなど、コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
「少しでも得な道を歩こう」「一代のうちに安楽な道を選ぼう」……これでは駄目です。自分は、どうなってもいいから……最善をつくしてですね……子孫のことを思うようにならなければ……将来のことを。
ふくしま物語のステージ 【草野心平の詩(中)】平伏沼「月夜」 水辺に実る『奇妙な果実』
草野心平が川内村の南西部にある平伏沼を初めて訪れたのは1953(昭和28)年9月2日。
そもそも心平が川内村を初めて訪れた目的は、平伏沼探訪だった。きっかけは、49年2月1日付読売新聞に掲載された心平の随筆「背戸峨廊」。その中で心平は「カエルの詩人」らしく、モリアオガエルを見る機会がない―と記し、これに対し、川内村・長福寺の矢内俊晃住職が、モリアオガエルがすむ沼が村にあるので来てほしいと手紙を出したのだった。
それから4年後、心平は53年8月29日から9月3日まで川内村に滞在し、平伏沼へは村をたつ前日訪れたらしい。車が少ない時代、心平は森をかき分け進んだのだろう。
深い森...奥に沼
現在、森は変わらず深いが、道は舗装され、沼の手前には駐車場もある。沼は、モリアオガエルの生息地として国の天然記念物に指定された名所で、自然観察会も開かれるという。しかし今年はコロナ禍で観察会は軒並み中止だそうだ。梅雨時はモリアオガエルの産卵期と重なるため、例年は見学者も多そうだが、今は人けがない。
駐車場から沼へ約120メートル、静かな森の中を歩く。小雨が降り始めたが、頭上を木々が厚く覆っているため、雨音はしても、体は雨粒を感じない。ささやかな幸運を感謝していると、行く手にぽっかり空間が開けた。
平伏沼の周りは、なんとも不思議な雰囲気が漂う。
雨で少しけぶった沼は、そう大きくはない。枝を広げた広葉樹が水際を覆い、中央だけが、ほんのり明るい。聴こえるのは、かすかな雨音と、時折遠くで鳴くウグイスの声だけ。水面に広がる同心円に見とれた。
ふと視線を上げると、沼にせり出した枝から下がる灰色の物体に気付いた。モリアオガエルが産み付けた卵塊だ。想像以上に大きい。大きめのメロンほどか。まさに奇妙な果実。よく見ると、方々にぶら下がっている。
この世の光景ではない。何というか...神話の世界である。
しかしカエルの姿は、目を凝らしても見つからなかった。
辺りが暗くなり、慌てて山を下りた。そんな調子だから、後から気付いたのだが、沼のほとりには心平の歌碑がある。刻まれている歌は
〈うまわるや森の蛙は阿武隈の平伏の沼べ水楢のかげ〉
「うまわる」は「生まれて、増える」の意。情景を切り取りつつ、葉裏にひそむ森の蛙(かえる)たちの、たくましい生命力をたたえている。豊穣(ほうじょう)を意味する古い言葉からは「古事記」的な世界を連想する。やはり心平も、沼べで神話の舞台を見たのかな、などと我田引水し悦に入る。
ただ、気になるのは、平伏沼について書いた心平の作品が、この歌以外に見当たらないことだ。なぜだろうと考えていると、一つ思い当たった。天山文庫の「十三夜の池」である。
光景写した庭
天山文庫は、建物も庭も村を挙げての勤労奉仕で建設された。このうち庭造りでは「心平先生が、庭の真ん中の石に腰掛け『それはここに植えっか』など、人々が持ち寄った草木の移植場所などを指示していた」と川内村の副村長、猪狩貢(みつぎ)さん(70)は振り返る。
こうして整えられた庭の中で、十三夜の池は建物の真正面に配置された。そして「木々が大きくなっても、先生は伐採せず自然のままで置きたいと考えていた」と猪狩さんが話すように現在、池の周りは草木が生い茂り、森のようになっている。
つまり心平は、平伏沼の光景を写し庭を造り、これで十分と、平伏沼の詩は詠まなかったのではないか...。まあ、それは強引だが、森の沼の光景が彼と共鳴したのは確かなことだろう。
心平の詩「月夜」。〈空と沼と。/十日の月は二つ浮び。/そのセロファンの水底の。/もやもやの藻も透いてみえる。(後略)〉(表記はハルキ文庫「草野心平詩集」による)。平伏沼訪問前の作で、心平の中には以前から、月夜の沼のイメージがあったことが分かる。
彼は、川内村を訪れ自身の心象風景と出合ってしまったのかなと思う。
高校野球を応援、気さくな人柄
川内村副村長の猪狩貢さんが、草野心平と出会ったのは、猪狩さんが村役場に就職した1968(昭和43)年。天山文庫の庭造りが行われていた。「庭に植える木は、心平先生が村民に呼び掛けて、山から持ってきてもらっていた。われわれ村の職員も、ヤマツツジを持って行ったりした。そんな(自分で直接人に頼む)ところが、先生の人柄でした」
心平の野球好きを伝える逸話も多い。「村に滞在中の7、8月は高校野球の県大会を見に、いわきや郡山、福島に出掛けていた。多分母校の磐城高を応援してたのでしょう」
村恒例の盆野球大会でも心平は必ず始球式に出て、試合も熱心に観戦したという。役場チームで投手だった猪狩さんは「私は左投げなので、先生から『ぎっちょ(左利き)頑張れ』と声を掛けられた」と振り返る。
心平は川内のどこに引かれたのだろう。そう聞くと猪狩さんは「村民の人柄と自然だったと思います。村民は訪れた人に最初は遠慮します。しかし天山祭りや野球を通じ知った先生の人柄がとても気さくで、村民も近づきやすかった。それで互いに打ち解けたのでしょうね」と話していた。
◇
平伏沼 川内村上川内の平伏山頂(842メートル)にある楕円(だえん)形の沼。面積12アール。自然のたまり水で水量は一定していない。6月下旬から7月上旬、モリアオガエルが沼べの樹上に多数の泡状の卵塊を懸け繁殖する。卵塊は昔「延命小袋」と称し珍重された。現在は平伏沼が、モリアオガエル繁殖地として国の天然記念物に指定されている。
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モリアオガエル 森にすみ、樹上で集団産卵する。体色が周囲の木の葉と同じ緑色のため、識別が難しい。指の先端に吸盤があり、木の枝や葉に張り付き産卵する。
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天山文庫 草野心平が川内村に贈った書籍類を収める施設。設立に際しては川端康成ら多くの文学者が発起人となり、詩人や作家、出版社も本を寄贈した。現在約3000冊を収蔵。本館の近くには酒樽(さかだる)を使い作った「第2文庫」「第3文庫」が立つ。名称は、心平が故郷の小川に開いた貸本屋と同じ名を付けた。月曜休館。問い合わせはかわうち草野心平記念館(電話0240・38・2076)へ。
中編では、心平と川内村との縁を取り持ったモリアオガエル繁殖地の平伏沼(へぶすぬま)、それから昨日もご紹介した天山文庫がメインです。
平伏沼には当方、平成25年(2013)に訪れました。当時はシャコタンにしたスポーツタイプの旧車でしたので、記事に有るようにたどり着くまでが大変でした。天山文庫の庭に作られた池(十三夜の池)が、平伏沼を模したものかもしれないという説、なるほどね、と思いました。
心平と野球についてはこちら。心平母校の磐城高校さん、今春開催予定だったセンバツ甲子園に出場予定でしたが大会はコロナ禍で中止。残念に思っておりましたが、夏の甲子園も中止となり、センバツの代替として、交流試合が開催されることになり、8月15日(土)に国士舘高校さん(東京)との対戦が決まりました。奇しくもお盆。川内村の「盆野球」を思い起こしました。
さて、今秋月曜掲載の後編も。
中編では、心平と川内村との縁を取り持ったモリアオガエル繁殖地の平伏沼(へぶすぬま)、それから昨日もご紹介した天山文庫がメインです。
平伏沼には当方、平成25年(2013)に訪れました。当時はシャコタンにしたスポーツタイプの旧車でしたので、記事に有るようにたどり着くまでが大変でした。天山文庫の庭に作られた池(十三夜の池)が、平伏沼を模したものかもしれないという説、なるほどね、と思いました。
心平と野球についてはこちら。心平母校の磐城高校さん、今春開催予定だったセンバツ甲子園に出場予定でしたが大会はコロナ禍で中止。残念に思っておりましたが、夏の甲子園も中止となり、センバツの代替として、交流試合が開催されることになり、8月15日(土)に国士舘高校さん(東京)との対戦が決まりました。奇しくもお盆。川内村の「盆野球」を思い起こしました。
さて、今秋月曜掲載の後編も。
ふくしま物語のステージ 【草野心平の詩(下)】噛む・少年思慕調 悪童を詩人にした...故郷
とがった行動
小川では確かめたいことがあった。心平は人生の後半、川内の人と自然を愛した。一方、故郷との関係は、足を運んだ回数から見て淡泊に思える。この差は何だろう。思いつく理由は、故郷への愛憎入り交じった感情だ。心平の友人、中原中也も詩「帰郷」で「ああ おまえはなにをして来たのだと......吹き来る風が私に云う」と詠んだ、あの苦い思いである。
山に囲まれた田園の一隅に、心平の生家がある。厳密には生家跡に復元された木造平屋の建物。そんな昔ながらの民家で1903(明治36)年、心平は地主の家の次男として生まれた。
家族は祖父母と両親、兄と姉。しかし、4年後の妹が生まれた年、両親と3人のきょうだいは上京し、心平だけが生家で祖父母に育てられた。ここだけ見ると線の細い少年像が思い浮かぶが、彼の年譜などを読むと、それが見当外れだと分かる。
まず、祖父母に溺愛され、わがままのし放題。癇(かん)も強く、誰彼となくかみついたり、小学校では授業中に鉛筆や教科書の縁をかみちぎったり...。
当時の鬱屈(うっくつ)を振り返った心平の詩が「噛(か)む 少年思慕調」だ。
〈阿武隈山脈はなだらかだった。/(1行あき)だのに自分は。/よく噛んだ。/鉛筆の軸も。/鉛色の芯も。/(1行あき)阿武隈の天は青く。/雲は悠悠ながれてゐた。(後略)〉
旧制磐城中に入学すると、文学とはほぼ無縁で、女学校の生徒に片思いするが、教室では教師をいびり、応援団長になった双葉中との野球の試合では大げんか。立派な悪童ぶりで4年生の秋、同校を中退、16歳で故郷を飛び出すように上京した。
心平の「とがった」行動の背景には、家族の病気と死もあった。心平が小学6年の冬から中学1年の夏、東京の兄民平(16歳)、小川で療養中だった母トメヨ(46歳)が結核で死去し、姉綾子(22歳)も療養先で腸チフスのため亡くなった。
故郷を飛び出した心平に、地元の人々も冷淡だったようだ。心平生家でボランティアをしているKさん(72)とYさん(71)は「『あの(心平の)家は、働かない(田畑に出ない)ので没落した』とか大人たちが言っていた。『すごい』となったのは、心平さんが文化勲章を受章してから。小川にはあまり来なかったのでは」と言う。
散々な言われように、心平も足が向かなかったのかなと思いつつ、生家内を見学するとパネルに書かれた詩が目に留まった。詩「上小川村」は〈ブリキ屋のとなりは下駄屋。〉など、心平が記憶の中の故郷の情景をつづった一編。鬱屈を振り払うように飛び出た故郷への思慕が、なんだか切ない。
愛着強かった
しかし、次に訪れたいわき市立草野心平記念文学館では、そんなセンチメンタルな思い込みは一蹴された。
同館の馬目聖子学芸員いわく。まず、心平は最初の詩集「廃園の喇叭(らっぱ)」を帰郷し小川小で印刷した。仕事のない24歳の時は小川に戻り農業をしようとした。戦後、中国から引き揚げて来たのも小川で、この時、地元の名勝に「背戸峨廊」と命名した。そして晩年、川内村で倒れた時、運ばれたのも、いわき市の病院だった―など。心平さん、実は度々故郷を頼り里帰りしていたのだ。
「心平にとって故郷は、戻りたくない場所ではなかったと思う。むしろ愛着は強かった。川内は理想の田舎で、小川は自分を知っている人が多すぎて居づらかったのだろう、と話す人もいます」
馬目さんによると、心平は戦後、自分が「天」という言葉を多用していることに気付いたという。詩「噛む」にもあった。
〈(前略)その二箭山(フタツヤサン)のガギガギザラザラが。/少年の頃の自分だった。/(1行あき)阿武隈の天は青く。/雲は悠悠流れてゐたのに。〉
二箭山は小川から見える山。屈託を抱えた少年を詩人にしたのは、故郷の空だったのだろう。(岩波文庫版「草野心平詩集」、「草野心平 わが青春の記」など参考)

◇
草野心平生家 戦後の草野家の居宅を基に復元された。心平の詩や写真、朗読(音声ガイド)などで心平と故郷のかかわりを紹介している。敷地の蔵跡には、心平の弟で詩人の草野天平の詩碑が立つ。月曜と年末年始休館。観覧無料。(電話)0246・83・2901
◇
小川郷駅 心平も旧制磐城中への通学で利用した磐越東線の駅。当時運行本数が少なく心平は2年生ぐらいまで徒歩で登校した。心平と二ツ箭山に登ったことのある作家串田孫一が、心平に「前から読んでも後ろから読んでも同じ駅名は」「答えはOGAWAGO」だと教えた―との逸話がある。
◇
アクセス いわき市小川町は、常磐線いわき駅から車で約20分。常磐道いわき中央インターチェンジ(IC)からは約20分。磐越東線小川郷駅前からは、文学館、生家とも車で約5分。タクシーは要予約。
当方何度もお邪魔しているいわき市の草野心平記念文学館さん、そこからほど近い心平生家などが取り上げられました。
「串田孫一が、心平に「前から読んでも後ろから読んでも同じ駅名は」「答えはOGAWAGO」だと教えた―との逸話」。郷土愛に溢れていますね(笑)。おそらく串田の用意していた正解は、特にローマ字とは言わなかったとすれば「田端(たばた)」、ローマ字を想定していたのなら「赤坂(AKASAKA)」ではないかと思うのですが(それぞれけっこう有名なので)。
さて、平伏沼、心平記念館さん、心平生家などなど、コロナ禍にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
「少しでも得な道を歩こう」「一代のうちに安楽な道を選ぼう」……これでは駄目です。自分は、どうなってもいいから……最善をつくしてですね……子孫のことを思うようにならなければ……将来のことを。
講演会筆録「高村光太郎講演会」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳
最近また依頼がありまして、今年1月に亡くなった当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼文を書いています。復員後、「後半生」というにはあまりに長い時間を、光太郎の書き残したものや、周辺人物の証言など、「資料」の収集に当たられたその業績は、まさに「子孫」=「次の世代」を思ってのお仕事だったのだな、と改めて感じています。
光太郎晩年や没後、心平も北川先生ともどもそうした仕事にあたっていました。重ねて感謝の意を表したいと存じます。
光太郎晩年や没後、心平も北川先生ともどもそうした仕事にあたっていました。重ねて感謝の意を表したいと存じます。