光太郎や、その親友だった碌山荻原守衛らに多大な影響を与えた、オーギュスト・ロダン(1840~1917)関連。少し長いのですが、代表作の一つ「カレーの市民」が取り上げられている、今月中旬に『聖教新聞』さんに掲載された記事です 

〈世界の名画との語らい〉ロダン《カレーの市民》 先入観を打ち破る新たな英雄像 人間の可能性ひらいた「近代彫刻の父」。

001 1959年に開館した東京・上野の国立西洋美術館は、西洋の美術作品を専門とした美術館です。所蔵品の基礎を成している“松方コレクション”は、第1次世界大戦中に造船業で巨万の富を築いた松方幸次郎によって収集されました。番外編として、絵画ではなく、近代彫刻の父、オーギュスト・ロダンの傑作<カレーの市民>を紹介します。(サダブラティまや記者)

語り継がれる6人の物語
 フランス北部、英仏海峡沿いの港町であるカレー市は、同市を救った英雄、ウスタッシュ・ド・サン=ピエールをたたえる記念碑の計画を立てていた。不思議な縁に手繰り寄せられて、その依頼が彫刻家オーギュスト・ロダンのもとに舞い込んで来たのは、1884年のこと。
 ウスタッシュは、どんな人物だったのか。史実によると、英仏の百年戦争時代(1337年~1453年)、カレー市はイングランド王エドワード3世の侵略を受け、包囲された。兵糧攻めが1年以上も続き、極限に達したある日、王は要求する。市を解放する代わりに、6人の人質を差し出すこと。帽子を取り、裸足となり、首に縄を巻いて、市の鍵を手にして処刑台に向かえ、と。
 市民はたじろぎ、怒り、嘆いた。“いっそ戦おう!”“華々しく散ろう!”と、ある者は叫んだ。不気味な沈黙が場を包んだ時、一人、決然と立ち上がったのがウスタッシュだった。“私が人質になろう”。彼の姿に鼓舞され、一人、また一人と、後に続いた。
 この年代記を読んだロダンの心は、感動で打ち震えた。“ウスタッシュの示した勇気の行動は、今もなお欧州の人々の間で語り草となっている。その記念碑に携われるとは、なんと栄誉なことだろう”。ロダンは、自らが金銭的な負担を背負ってもいいとの覚悟で、制作費も高額なものは請求せず、喜んでこれに応じた。
 どのように表現するか。それがロダンにとって究極の挑戦だった。伝統的に記念碑とは、一人の人物を中心に制作される。「しかし、ロダンは初めから、一人だけを輝かせるのではなく、市民を守った6人を組み合わせて彫刻を作ることに強い意志を示していました。この事件の重みを全員で受け止められるよう、均等にポーズを取らせたことは非常に斬新です」と話すのは、国立西洋美術館の馬渕明子館長。
 前例がないロダンの発想は、“もっと英雄らしい気高い姿を描写するべきだ”と非難を浴びた。ロダンは自身の心情を次のように語っている。「私の示そうとしたものは、あの時代の自分たちの名前も出さないで犠牲に身を投じたような市民だったのです」(高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』岩波文庫)

000紆余曲折を経て日本へ
 ロダンは、1840年、パリの下町に、庶民の子として生まれた。父は、パリ警視庁の下級官吏だった。6歳の時、キリスト教の学校で初等教育を受け始めるが、近視のためか、成績は芳しくなかった。
 息子の将来を案じた父親は、絵を描くのが好きだったロダンを帝国素描・算数専門学校に通わせる。当時のフランスで、芸術家の登竜門とされていた国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に対して、通称“小校”と呼ばれていたこの学校は、装飾美術の職人を養成する目的で創られた。
 この小校で、古い規則にとらわれない斬新な美術教育を受けられたことは、後年、“戦う芸術家ロダン”を育む上で、重要な役割を果たした。
 彫刻でプロの道を目指したロダンは、1857年から毎年、国立美術学校を受験するも、3年連続で不合格。自信のあった彫刻の分野で認められなかったショックは、大きかった。
 生活のために、装飾仕事に従事しつつ、人気があった彫刻家のカリエ=ベルーズに師事し、石膏取りや建築装飾など、どんな下請けも引き受けた。自作に師匠のサインが入る屈辱にも耐えながら、20年がたった頃、彼の人生に光が差し始める。
 1880年、ロダンの出世作である<青銅時代>が政府に買い上げられたのだ。さらに同年、<地獄の門>の発注も受けた。<カレーの市民>の依頼も、その延長線上にあった。
 現在、国立西洋美術館の前庭に設置されている<カレーの市民>が松方幸次郎により発注されたのは、1918年。松方はこの時期、日本に美術館を造ろうと、フランスで芸術品の収集に奔走していた。
 だが、<カレーの市民>が日本に送られて来たのは、それから40年以上も経過した1959年のこと。この間、もともと松方が注文した彫刻は、アメリカのコレクターに売却。それを補うために造られた次の作品も、第2次世界大戦中にナチスが買い上げてしまった。
 戦後、パリのロダン美術館に返還されたものの、フランス側の強い要請でそのまま本国にとどまることに。ようやく1950年代に入り、フランスに没収されていた数々の松方コレクションの寄贈・返還交渉が開始された際、国立西洋美術館のために新しく鋳造(金属を鋳型に流し込んで作る方法)されたのが本作だった。

真実の勇者の証しとは
 馬渕館長はロダン芸術の魅力について、こう語る。
 「ロダンの彫刻は、ものすごく人間くさいんです。彼は、人間の持つ可能性をくまなく研究しました。人体の構造に始まり、動作、表情、内面の描写に至るまで、全てを解体して、一から作り直すことに躊躇がなかった。だからこそ、思いがけない組み合わせを発見できた。先入観を壊していく勇気があったのだと思います」
 カレーの市民たちの物語は、ドイツの作家ゲオルク・カイザーによって戯曲となり、世界中の人々に広く親しまれている。このエピソードを貫く最大のテーマは、「真実の勇気」だ。
 馬渕館長は続ける。
 「ロダン以前に表現されてきた勇気の行為は、最後の決断の時だけがクローズアップされてきました。そこに至るまでに、実は、複雑な心の過程があることを、ロダンは伝えたかったのでしょう。恐怖、悲しみ、決意といった感情が、6人の存在によって時間のように流れていきます。単に立派な人物の描写で終わるのではなく、人間が葛藤しながらも、正しい選択をしていく強さを表したかったのではないでしょうか」
 ロダンが映しだそうとした感動的な人間像をなかなか理解できなかったカレー市当局は、記念碑の設置をためらっていたが、ついに1895年、除幕式が行われた。彫刻が発注されてから11年が経過していた。
 とはいえ、<カレーの市民>はロダンが携わった記念碑の中でも、成功したプロジェクトとして際立っている。他の代表作は、生前には公共の場所に設置されなかったり、完成しても受け取りを拒否されたりしていた。常に無理解と中傷にさらされてきたロダンのキャリアの中で、彼の意図に共鳴してくれる人々がいることは、決して当たり前のことではなかったのだ。
 ロダンが命を削って描きだそうとした6人の市民たちは、名誉も地位も財産もない。けれど、一番大切な「勇気」を持っていた。勇敢に見えるウスタッシュとて、激しい心の葛藤があっただろう。でも、正しいと信じるがゆえに、行動を起こさずにはいられなかった。愛する同胞たちの希望になることを確信して。
 目には見えない静かな勇気。華やかではない勇気。それが自分を変え、周囲を変え、世界を変えていく――。勇者たちのそんな魂の叫びが聞こえる。

<画家 略歴>
オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin 1840年~1917年)。近代彫刻の父。警察官の息子としてパリに生まれ、彫刻家を目指して美術学校を受験するが、3度連続で不合格。建築装飾の仕事に約20年間、従事した。ミケランジェロに傾倒し、<青銅時代>でデビュー。代表作に<地獄の門><考える人><バルザック>など。

<国立西洋美術館>
東京都台東区上野公園7-7。JR上野駅下車(公園口出口)徒歩1分。開館時間=9時半~17時半。金・土曜日は9時半~20時。※入館は閉館の30分前まで。休館日=月曜日(休日の場合は翌平日)、年末年始、2020年10月19日~2022年春(予定)全館休館。

ついでですので、光太郎の筆になる「カレーの市民」解説も。

彼が「地獄の門」の諸彫刻に熱中してゐる間にフランスの一関門カレエ市に十四世紀に於ける市の恩人ユスタアシユ ド サンピエルの記念像を建てる議が起つた。其話をカレエ市在住の一友から聞かされ、いろいろの曲折のあつた後、雛形を提出して、結局依頼される事になつた。ルグロやカザンの骨折が大に力になつたのだといふ。十四世紀の中葉、カレエ市を包囲した英国王エドワアド三世が市の頑強な抵抗に腹を立てて、市を破壊しようとした時、残酷な條件通り身を犠牲にする事を決心して市民を救つた当年の義民の伝を年代記で読んだロダンはひどく其主題に打たれた。犠牲に立つた者は一人でなくして六人であつた。ロダンは一人の銅像の製作費で六人を作る事を申出で、十年かかつて「カレエの市民」を完成した。
(略)
「カレエの市民」で彼は更に破天荒な構図を作つた。当時の黄金律になつてゐたネオ希朧派の構図法三稜形を全く無視し、十四世紀当時の光景をロダンの幻像のままに示顕させようとした。六人の人物の配置は線の連絡よりも、むしろ明暗の連絡と、劇的心理の連絡によつて行はれた。彫刻の技法は省略と誇張とを強めて、外光を顧慮し、中世期の彫刻精神に余程近づいた。此の彫刻の中には既に後年の「バルザツク」の萌芽があるのである。ロダンは此群像をカレエ市庁の階段の上の石畳へ置いて通行する者と同列の親密感を得させたいと考へた。しかし其は同意せられず、やはり普通のやうに台の上に載せられた。中世期のカテドラルの人物彫刻が彼の意識を支配して居たであらうといふ事が此の群像に特殊の興味を与へる。此は一八九五年に除幕された。
(「オオギユスト ロダン」より 昭和2年=1927)

光太郎はおそらくこの彫刻そのものは見ていないと思われます。現在、全世界に同型の鋳造は12組存在しますが、光太郎が滞欧していた当時(明治40年=1907~同42年=1909)、まだ最初のカレー市(ドーバー海峡に面した都市)にしか設置されて居らず、その作を見たということは光太郎の文筆作品では確認できません。ロンドンからパリに移った明治41年(1908)には、ドーバーを船で渡りましたが、フランス側の到着地はカレーより100㌔ほど南のディエップでした。

また、光太郎はロダンのアトリエを少なくとも2回訪れていますが、いずれもロダンは留守(それを狙っていたふしもあります)。応対してくれた妻のローズに、デッサンは見せて貰いましたが、彫刻の石膏原型などを見たということも光太郎の文筆作品では確認できません。

現在、上野の国立西洋美術館さん前庭に据えられている「カレーの市民」は、昭和28年(1953)の鋳造。この時点ですぐに送られていれば間に合ったのですが、上記記事にあるように紆余曲折があって、設置は昭和34年(1959)。光太郎が歿して3年後でした。ぜひ光太郎に見せたかったなぁ、という感じです。

次に上野に行く機会がありましたら、そんなこんなを思い浮かべつつ、改めて「カレーの市民」を見てこようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

説明に過ぎると却て弱くなる。

散文「『職場の光』詩選評 五」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

詩に関しての発言です。一語一語が内包している背後にあるものを大切にすべし、ということですね。短歌や俳句などの短詩系文学では、さらにその傾向をつきつめたものが優れているとされますが、詩においてもそうだ、と。ついでに言えば、文学に限らず、造形芸術でもそうなのではないでしょうか。