新潮社さんのオンラインショップで見つけました。おそらく新たにラインナップに加わったのかな、と。
「1922(大正11)年、12,016点の応募作品の中から、高村光太郎らの審査員によって選ばれた。」という「「潮」の文字を図案化したマーク」。最後の画像に使われているものです。
筑摩書房さん『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜、大正11年(1922)の項に、光太郎らによる審査という記述がなく、この件は存じませんでした。
また、「こんなデザインがあったのか」という感じでしたが、改めて手元にある新潮社さんの古い出版物を調べてみたところ、随所に使われていました。これまで気に留めていませんで、汗顔の至りです。
左から、昭和8年(1933)発行の新潮文庫『大正詩選』検印紙。同じ検印紙は昭和2年(1927)の『昭和詩選』、同4年(1929)の『現代詩人全集第九巻』にも使われていました。さらに『大正詩選』では、上記包装紙の別バージョンにあしらわれている「木と鳥」が裏表紙に。
左から二番目は、昭和28年(1953)刊行の『高村光太郎詩集』(伊藤新吉編)裏表紙。
右から二番目で、昭和30年(1955)に出た新潮文庫『詩集 天上の炎』検印紙。ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンのもので、光太郎訳です。光太郎の表記では「ヴェルハアラン」ですが。
一番右は、光太郎遺著の一つ、『アトリエにて』(昭和31年=1956)カバー。
戦後もしばらく使われていたのですね。
さて、「新潮社オリジナル包装紙」、なかなかシャレオツです。ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
翁と亡父光雲との対話を傍聴してゐる時は面白くたのしかつた。亡父は耳が相当に遠かったし、翁は純朴な東北弁まる出しであつたから、話は時々循環してその尽くる所を知らなかつた。今や、翁も父も此世に亡い。
ブックカバーにも便箋にも。使い方はあなた次第の5枚セットです!
新潮社に所縁のある模様+文豪トートと同じイラストの5種類の包装紙を封入。使い方しおり付きです!
・緑の孔雀:
1914(大正3)年から刊行された第一期新潮文庫の見返しにあしらわれていたマーク。
1914(大正3)年から刊行された第一期新潮文庫の見返しにあしらわれていたマーク。
・金の潮:
「潮」の文字を図案化したマーク。
1922(大正11)年、12,016点の応募作品の中から、高村光太郎らの審査員によって選ばれた。
「潮」の文字を図案化したマーク。
1922(大正11)年、12,016点の応募作品の中から、高村光太郎らの審査員によって選ばれた。
・水色の木と鳥:
1933(昭和8)年から刊行された第三期新潮文庫の裏表紙にあしらわれていたマーク。
1933(昭和8)年から刊行された第三期新潮文庫の裏表紙にあしらわれていたマーク。
・灰色のぶどう:
戦後の1947(昭和22)年に復刊された第四期新潮文庫の本扉にあしらわれていたマーク。
戦後の1947(昭和22)年に復刊された第四期新潮文庫の本扉にあしらわれていたマーク。
・黄色の文豪イラスト:
芥川龍之介、川端康成、太宰治、夏目漱石、松本清張、三島由紀夫。
イラストレーター柳智之 による書き下ろし。
芥川龍之介、川端康成、太宰治、夏目漱石、松本清張、三島由紀夫。
イラストレーター柳智之 による書き下ろし。
「1922(大正11)年、12,016点の応募作品の中から、高村光太郎らの審査員によって選ばれた。」という「「潮」の文字を図案化したマーク」。最後の画像に使われているものです。
筑摩書房さん『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜、大正11年(1922)の項に、光太郎らによる審査という記述がなく、この件は存じませんでした。
また、「こんなデザインがあったのか」という感じでしたが、改めて手元にある新潮社さんの古い出版物を調べてみたところ、随所に使われていました。これまで気に留めていませんで、汗顔の至りです。
左から、昭和8年(1933)発行の新潮文庫『大正詩選』検印紙。同じ検印紙は昭和2年(1927)の『昭和詩選』、同4年(1929)の『現代詩人全集第九巻』にも使われていました。さらに『大正詩選』では、上記包装紙の別バージョンにあしらわれている「木と鳥」が裏表紙に。
左から二番目は、昭和28年(1953)刊行の『高村光太郎詩集』(伊藤新吉編)裏表紙。
右から二番目で、昭和30年(1955)に出た新潮文庫『詩集 天上の炎』検印紙。ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンのもので、光太郎訳です。光太郎の表記では「ヴェルハアラン」ですが。
一番右は、光太郎遺著の一つ、『アトリエにて』(昭和31年=1956)カバー。
戦後もしばらく使われていたのですね。
さて、「新潮社オリジナル包装紙」、なかなかシャレオツです。ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
翁と亡父光雲との対話を傍聴してゐる時は面白くたのしかつた。亡父は耳が相当に遠かったし、翁は純朴な東北弁まる出しであつたから、話は時々循環してその尽くる所を知らなかつた。今や、翁も父も此世に亡い。
散文「『青沼彦治翁遺功録』序」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳
青沼彦治は宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)で酒造業を営んでいた素封家。その銅像制作が大正14年(1925)、光雲に依頼され、光太郎が原型制作に当たりました。像は戦時中の金属供出のため現存しませんが、光太郎らの名が刻まれた当時のプレートを貼った台座は残っています。
青沼と光雲の会話の様子、ほほえましいものがあります。「時々循環して」、「あるある」ですね(笑)。
青沼と光雲の会話の様子、ほほえましいものがあります。「時々循環して」、「あるある」ですね(笑)。