光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』7月15日号。
まずは「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」という連載で、光太郎ブロンズ彫刻の代表作「手」が取り上げられました。
彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。父の高村光雲は明治時代を代表する彫刻家で、小さな仏像から大きな西郷隆盛像まで大小さまざまな作品を遺しました。光雲の長男として生を受けた光太郎は、自然な流れで木彫家の後継者として育ち、小学生のころには小刀で木彫りのまね事を始めていました。
作品『手』は、東大寺大仏の右手などに見られる「施無畏(せむい)の印(いん)」を、光太郎自身の左手で結んだ光太郎の代表作です。粘土による塑像から石こう像を経て鋳造されたブロンズは、木彫りの台座に支えられ、人さし指は真っすぐに天を貫いています。『手』は単なるブロンズ像ではなく、木彫りと塑像の折衷によって出来上がった作品なのです。
明治以前からの日本における伝統的な工芸・木彫りと、明治以降に西洋文化の影響を受けた塑像が一体となった『手』。木彫家の光雲の血を引き、欧米留学で西洋の芸術を身に付けた光太郎だからこそ、この作品を作り出せたと言えるでしょう。
高村光太郎記念館では『手』のほか、併設して実物大で作られた『さわれる手』も展示しています。鑑賞するだけでなく、直接触れて光太郎の作品を感じ取ってみてください。
この連載、時折、光太郎作品や遺品等を取り上げて下さっているので、非常にありがたく存じます。過去の記事はこちら。
実業家・大倉喜八郎のブロンズ像 (平成29年=2017 11月15日号)
光太郎の鉄兜(てつかぶと)と鳶口(とびぐち) (平成30年=2018 8月15日号)
光太郎が使用した硯(すずり)と筆 (平成31年=2019 9月15日号)
「大地麗(だいちうるわし)」の書 ( 同 10月15日号)
同じ「広報はなまき」最新号で、光太郎がらみの記事がもう1件。
来月オープン予定の道の駅「はなまき西南」。なぜ光太郎がらみかといいますと、愛称が「賢治と光太郎の郷(さと)」ということになったためです。
場所的には、花巻高村光太郎記念館さんから直線距離で4㌔㍍ほど。かつて光太郎もこの辺りを歩いたはずで、そこで「光太郎」。「賢治」は、やはり全国区の知名度として花巻と言えば賢治なので、外せないのでしょう(笑)。このあたりには賢治の足跡は残っていないような気もしますが、どうなのでしょう。当方、賢治にはそれほど詳しいわけではありませんのでよくわかりません。ご存じの方、ご教示いただければ幸いです。
施設内には展示スペース的なコーナーも設けられるとのことで、光太郎と賢治の関わりについての説明版が掲げられる予定です。地元の方が書かれた原稿がこちらに廻ってきまして、僭越ながら校閲させていただきました。
計画はだいぶ前からあったのですが、いよいよ8月7日(金)、オープン予定だそうです。花巻高村光太郎記念館あんと併せ、ぜひ足をお運び下さい(しつこいようですがコロナ感染拡大にはお気を付けつつ)。
【折々のことば・光太郎】
幸いに父は達者で居ります。父の面前で、その父の愛について語るなどといふ事は面はゆくて出来ません。
まずは「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」という連載で、光太郎ブロンズ彫刻の代表作「手」が取り上げられました。
高村光太郎『手』 木彫りと塑像が融合した光太郎の代表作
作品『手』は、東大寺大仏の右手などに見られる「施無畏(せむい)の印(いん)」を、光太郎自身の左手で結んだ光太郎の代表作です。粘土による塑像から石こう像を経て鋳造されたブロンズは、木彫りの台座に支えられ、人さし指は真っすぐに天を貫いています。『手』は単なるブロンズ像ではなく、木彫りと塑像の折衷によって出来上がった作品なのです。
明治以前からの日本における伝統的な工芸・木彫りと、明治以降に西洋文化の影響を受けた塑像が一体となった『手』。木彫家の光雲の血を引き、欧米留学で西洋の芸術を身に付けた光太郎だからこそ、この作品を作り出せたと言えるでしょう。
高村光太郎記念館では『手』のほか、併設して実物大で作られた『さわれる手』も展示しています。鑑賞するだけでなく、直接触れて光太郎の作品を感じ取ってみてください。
この連載、時折、光太郎作品や遺品等を取り上げて下さっているので、非常にありがたく存じます。過去の記事はこちら。
実業家・大倉喜八郎のブロンズ像 (平成29年=2017 11月15日号)
光太郎の鉄兜(てつかぶと)と鳶口(とびぐち) (平成30年=2018 8月15日号)
光太郎が使用した硯(すずり)と筆 (平成31年=2019 9月15日号)
「大地麗(だいちうるわし)」の書 ( 同 10月15日号)
同じ「広報はなまき」最新号で、光太郎がらみの記事がもう1件。
道の駅「はなまき西南」が8月7日にオープンします
太田・笹間地区に整備を進めてきた道の駅「はなまき西南」が8月7日(金)にオープンします。
同施設は、道路利用者への安全で快適な道路環境の提供と、地域の特性を生かしたにぎわいの場の創出を目的に整備。道の駅に必要とされる ▼地域連携機能(物産館や加工施設などを有した地域振興施設) ▼情報発信機能(道路・観光情報の提供など) ▼休憩機能(駐車場やトイレなど)ーの三つの機能を有しています。
中でも特徴的なのは地域連携機能。加工施設をミレットキッチン花(フラワー)が運営し、地元食材を使った弁当や惣菜を提供することで地域活力の向上を図るとともに、地域の高齢者を対象に配食サービスを通じた見守りを推進するなど、地域を支える拠点施設としての役割を担います。
■施設概要
◦所在地 轟木7-203
◦床面積 951.6平方㍍(敷地面積8,219平方㍍)
◦総事業費 約8億4,000万円
◦建物構造 鉄骨造平屋建て
◦建物構成 ▼地域連携機能…物産館、食堂、加工施設
▼情報発信機能…道路・観光情報などの情報提供施設
▼休憩機能…駐車場、トイレ、休憩所
▼情報発信機能…道路・観光情報などの情報提供施設
▼休憩機能…駐車場、トイレ、休憩所
◦駐車台数 大型車12台、普通車36台、身障者用1台、二輪車4台
道の駅「はなまき西南」開所式
日時8月7日(金)、午前10時
場所道の駅「はなまき西南」
*一般開放は、開所式終了後の午前11時30分を予定しています。
来月オープン予定の道の駅「はなまき西南」。なぜ光太郎がらみかといいますと、愛称が「賢治と光太郎の郷(さと)」ということになったためです。
場所的には、花巻高村光太郎記念館さんから直線距離で4㌔㍍ほど。かつて光太郎もこの辺りを歩いたはずで、そこで「光太郎」。「賢治」は、やはり全国区の知名度として花巻と言えば賢治なので、外せないのでしょう(笑)。このあたりには賢治の足跡は残っていないような気もしますが、どうなのでしょう。当方、賢治にはそれほど詳しいわけではありませんのでよくわかりません。ご存じの方、ご教示いただければ幸いです。
施設内には展示スペース的なコーナーも設けられるとのことで、光太郎と賢治の関わりについての説明版が掲げられる予定です。地元の方が書かれた原稿がこちらに廻ってきまして、僭越ながら校閲させていただきました。
計画はだいぶ前からあったのですが、いよいよ8月7日(金)、オープン予定だそうです。花巻高村光太郎記念館あんと併せ、ぜひ足をお運び下さい(しつこいようですがコロナ感染拡大にはお気を付けつつ)。
【折々のことば・光太郎】
幸いに父は達者で居ります。父の面前で、その父の愛について語るなどといふ事は面はゆくて出来ません。
アンケート「名士回答 私が父の愛を最も深く感じた時の思ひ出」全文
昭和6年(1931) 光太郎49歳
昭和6年(1931) 光太郎49歳
父・光雲に対して、彫刻家としては、その方向性の相違を烈しく意識せざるを得なかった光太郎ですが、人間的な部分では感謝の念は忘れたことはありませんでした。どれだけ反抗しても結局はスネかじりになり、お釈迦様の手のひらでいばっている孫悟空のような……。しかし、それを名言できないあたり、日本人の感覚としてはこうなのでしょう。