昨日は千葉市にある千葉県立美術館さんに行っておりました。先週から始まったコレクション展「高村光太郎の生きた時代」拝観のためです。
光太郎彫刻及び同時代で光太郎と交流のあった美術家たちの作品、30余点が展示されていました。
光太郎作品はすべてブロンズで、同館所蔵の8点、すべて出ていました。当方手持ちのデータアーカイブから画像を載せます。すべて光太郎令甥にして写真家だった、故・髙村規氏撮影になるものです。
東京美術学校在学中の作で、「猪」(明治38年=1905頃)、「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)。「薄命児」はもともと浅草で玉乗りの曲芸をやっていた幼い兄妹の群像でしたが、現存が確認できているのは兄の頭部のみです。
「手」(大正7年=1918)。先月、立川のたましん美術館さんでも拝見して参りました。先だって、この作品に関する未知だった文章を発見したばかりでしたので、興味深いものがありました。
「裸婦坐像」(大正6年=1917)。「手」にしてもそうですが、まだ智恵子も健康で、実生活は貧しいながらも平穏だった時期。その心の安定が作品にも反映されているように感じます。
「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)。光雲が依頼を受けた大倉財閥の創業者夫妻の肖像彫刻のために、光太郎が作った原型です。テラコッタの状態にしてあったものが、戦後になって光太郎の手元に帰り、さらに没後、鋳造されました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生宅の居間にこれがなにげに飾られていたと、改めて感慨にふけりました。
「野兎の首」。戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居時代の、現存が確認できている唯一の作。光太郎没後、山小屋の囲炉裏の灰の中からやはりテラコッタの状態で見つかったという、ドラマチックな背景があります。
故・髙村規氏の回想から。
村のお百姓さんが「囲炉裏の灰の中から、こんな土の塊が出てきたんですけど、これ一体なんでしょうかね」って持ってきたんです。見たら、手のひらにのる一握りの土の塊なんですね。目とか耳らしきものがあるんで兎みたいに見えたんですよ。これはもう小屋の周りの普通の地面の土です。水に溶かしてドロドロにした土を粘土みたいにして作って囲炉裏の火で焼いたんですね。おそらく気持ちとしてはテラコッタみたいになればいいなと思って焼いたんだと。だけど囲炉裏の火じゃあ温度が上がりませんから完璧には焼き締めができてないで、そのまま灰の中に埋めてあったんですね。
(中略)
見たら、砂の塊みたいでポロポロポロポロ崩れてくるんですね。ちょうど親父のお弟子さんの西大由さんが一緒に僕についてきたもんですから、その人と相談して旅館まで、ハンカチにくるんで怖々やっとの思いで運んで、親父に電話したんです。そうしたら「それは貴重な彫刻かもしれないから、何とかして、うまく石膏だけ残してくれ」。そのお弟子さんとしゃべったら「石膏に取るのはいいけど、石膏が失敗したら両方ともだめになっちゃうよ。そこんとこを、お父さんによく言っといてくれ」って言うから、「そう言ってるよ」って言ったら、「まあ、失敗するかどうかはともかく、石膏を用意してもらって、その土を石膏におこしてくれ」。
(中略)
「よし」ってんで石膏取りが始まりました。西さんは石膏をどうやって手に入れたんだろう、丁寧に旅館の人に頼んでどっかで石膏を買ってきて貰ったのかな。旅館の部屋の廊下のところで、石膏を溶いて、その土の塊にかぶせたんですよ。
(中略)
それを親父がブロンズにおこしましてね。《野兎の首》っていうタイトルでよく展覧会に出品するんです。それが戦後七年間の岩手の山小屋時代の唯一の彫刻なんですね。親父はその時はもうほんとに涙を流して喜んでましたね。兄貴はやっぱり彫刻家なんだと。
(「碌山忌記念講演会 伯父 高村光太郎の思い出」 『碌山美術館報第34号』 平成26年=2014)
これが昭和33年(1958)のことです。「親父」は光太郎実弟の豊周。「西大由」は豊周に師事した鋳金家。ともに人間国宝です。「旅館」は光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんでした。のちに鋳造しながら涙を流していたという豊周、感動的です。
そして生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための試作が2点。「手の試作」と、「中型試作」です。
8点並ぶと、光太郎の世界観がかなりの程度、濃密に現出されるなという感じでした。
その他、先述の通り、同時代で光太郎と交流のあった美術家たちの作品群。豊周、柳敬助、石井柏亭、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、毛利教武、高田博厚、中西利雄、舟越保武。そして、千葉出身ということで、宮崎丈二の絵も出ていました。宮崎の作品は滅多に観る機会がないので、「ほう」という感じでした。
作品を通し、これらの人々の魂がこの場に一堂に会し、旧交を温めているような、そんな不思議な感覚でした。ここに荻原守衛やバーナード・リーチらが入ればなおよかったかな、などとも思いました。
同展、会期は9月21日(月)までと、かなり長めです。新型コロナにはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
希望といふのも変ですが、もつと自分の詩をつきつめて行つて其処から戯曲への道をひらきたいと思つてゐます。
光太郎彫刻及び同時代で光太郎と交流のあった美術家たちの作品、30余点が展示されていました。
光太郎作品はすべてブロンズで、同館所蔵の8点、すべて出ていました。当方手持ちのデータアーカイブから画像を載せます。すべて光太郎令甥にして写真家だった、故・髙村規氏撮影になるものです。
東京美術学校在学中の作で、「猪」(明治38年=1905頃)、「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)。「薄命児」はもともと浅草で玉乗りの曲芸をやっていた幼い兄妹の群像でしたが、現存が確認できているのは兄の頭部のみです。
「手」(大正7年=1918)。先月、立川のたましん美術館さんでも拝見して参りました。先だって、この作品に関する未知だった文章を発見したばかりでしたので、興味深いものがありました。
「裸婦坐像」(大正6年=1917)。「手」にしてもそうですが、まだ智恵子も健康で、実生活は貧しいながらも平穏だった時期。その心の安定が作品にも反映されているように感じます。
「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)。光雲が依頼を受けた大倉財閥の創業者夫妻の肖像彫刻のために、光太郎が作った原型です。テラコッタの状態にしてあったものが、戦後になって光太郎の手元に帰り、さらに没後、鋳造されました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生宅の居間にこれがなにげに飾られていたと、改めて感慨にふけりました。
「野兎の首」。戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居時代の、現存が確認できている唯一の作。光太郎没後、山小屋の囲炉裏の灰の中からやはりテラコッタの状態で見つかったという、ドラマチックな背景があります。
故・髙村規氏の回想から。
村のお百姓さんが「囲炉裏の灰の中から、こんな土の塊が出てきたんですけど、これ一体なんでしょうかね」って持ってきたんです。見たら、手のひらにのる一握りの土の塊なんですね。目とか耳らしきものがあるんで兎みたいに見えたんですよ。これはもう小屋の周りの普通の地面の土です。水に溶かしてドロドロにした土を粘土みたいにして作って囲炉裏の火で焼いたんですね。おそらく気持ちとしてはテラコッタみたいになればいいなと思って焼いたんだと。だけど囲炉裏の火じゃあ温度が上がりませんから完璧には焼き締めができてないで、そのまま灰の中に埋めてあったんですね。
(中略)
見たら、砂の塊みたいでポロポロポロポロ崩れてくるんですね。ちょうど親父のお弟子さんの西大由さんが一緒に僕についてきたもんですから、その人と相談して旅館まで、ハンカチにくるんで怖々やっとの思いで運んで、親父に電話したんです。そうしたら「それは貴重な彫刻かもしれないから、何とかして、うまく石膏だけ残してくれ」。そのお弟子さんとしゃべったら「石膏に取るのはいいけど、石膏が失敗したら両方ともだめになっちゃうよ。そこんとこを、お父さんによく言っといてくれ」って言うから、「そう言ってるよ」って言ったら、「まあ、失敗するかどうかはともかく、石膏を用意してもらって、その土を石膏におこしてくれ」。
(中略)
「よし」ってんで石膏取りが始まりました。西さんは石膏をどうやって手に入れたんだろう、丁寧に旅館の人に頼んでどっかで石膏を買ってきて貰ったのかな。旅館の部屋の廊下のところで、石膏を溶いて、その土の塊にかぶせたんですよ。
(中略)
それを親父がブロンズにおこしましてね。《野兎の首》っていうタイトルでよく展覧会に出品するんです。それが戦後七年間の岩手の山小屋時代の唯一の彫刻なんですね。親父はその時はもうほんとに涙を流して喜んでましたね。兄貴はやっぱり彫刻家なんだと。
(「碌山忌記念講演会 伯父 高村光太郎の思い出」 『碌山美術館報第34号』 平成26年=2014)
これが昭和33年(1958)のことです。「親父」は光太郎実弟の豊周。「西大由」は豊周に師事した鋳金家。ともに人間国宝です。「旅館」は光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんでした。のちに鋳造しながら涙を流していたという豊周、感動的です。
そして生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための試作が2点。「手の試作」と、「中型試作」です。
8点並ぶと、光太郎の世界観がかなりの程度、濃密に現出されるなという感じでした。
その他、先述の通り、同時代で光太郎と交流のあった美術家たちの作品群。豊周、柳敬助、石井柏亭、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、毛利教武、高田博厚、中西利雄、舟越保武。そして、千葉出身ということで、宮崎丈二の絵も出ていました。宮崎の作品は滅多に観る機会がないので、「ほう」という感じでした。
作品を通し、これらの人々の魂がこの場に一堂に会し、旧交を温めているような、そんな不思議な感覚でした。ここに荻原守衛やバーナード・リーチらが入ればなおよかったかな、などとも思いました。
同展、会期は9月21日(月)までと、かなり長めです。新型コロナにはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
希望といふのも変ですが、もつと自分の詩をつきつめて行つて其処から戯曲への道をひらきたいと思つてゐます。
アンケート「本年(昭和三年)の計画・希望など」より
昭和3年(1928) 光太郎54歳
昭和3年(1928) 光太郎54歳
少し前にもエッチングの件で書きましたが、光太郎、「有言不実行」というか、「やるやる詐欺」というか、そいう部分もけっこうありまして(笑)……。この時期に戯曲を執筆したという事実は確認できていません。確認できていないだけで、実は存在するのかも知れませんが。