昨日も隣町の図書館さんに行っておりました。PCで各種データベースを検索できるコーナーが再開しまして、このところ週イチ程の頻度で通っています。

先週、先々週は、国会図書館さんのデジタルデータのうち、自宅兼事務所ではアクセスできないものを閲覧しましたが、昨日は、主要新聞さんの記事で、やはり自宅兼事務所では読めない地方版の記事などを調べ参りました。数日間、それらをご紹介します。

まず、『読売新聞』さんの高知県版に5月10日(日)に掲載された記事。光太郎の父・光雲の弟子の一人、高知出身の本山白雲(もとやまはくうん)についてです。 

内面や存在感 リアルに わがまちの偉人 龍馬像作った本山白雲

 太平洋を見つめるようにたたずむ、高知市・桂浜004の坂本龍馬像は、高知県民のシンボルとなっている。心酔する高知の青年が全国に呼びかけて建造資金を集め、1928年に完成させたストーリーで知られるこの像を手がけたのは、宿毛市出身の彫刻家本山白雲(本名=辰吉、1871~1952年)=写真=だ。
 同市立宿毛歴史館の矢木伸欣館長は「白雲の作品は、外見だけでなく、ポーズや表情を通して、写真では出せないモデルの内面や存在感を引き出した」と評する。この像が、龍馬を慕う人の心を引き寄せ続ける秘密も、そこにありそうだ。高さ5.3㍍、台座を含めると13.4㍍になる偉丈夫ぶり、太平洋に向けられたまなざしや口元、その居ずまいそのものが、坂本龍馬という偉人のイメージを形作る。
 
幼少時地蔵眺め続ける
 白雲は、土佐藩宿毛領の家臣の家に生まれ、子供の頃から美術に興味を持っていたという。特に造型にひかれていたのか、自宅近くの“お地蔵さん”を飽きずに眺めていたというエピソードが残る。10代半ばで、「彫刻家になる」と決心して上京。主筋の前領主伊賀陽太郎(1851~97年)を頼り、有名な彫刻家高村光雲(1852~1934年)に引き合わせてもらった。
 住み込みで師事し、「白雲」の名を受け、さま002ざまなコンクールで受賞するなど力をつけた。木彫りを主とする師と異なり、西洋から伝わったばかりの銅像制作に力を入れた。母校・東京美術学校の講師を務め、彫刻家としての評価が高まった白雲に声をかけたのが、宿毛出身で、北海道開拓に尽力した岩村通俊男爵(1840~1915年)だった。「明治を創り出した人たちを銅像で後世に伝えたい」
 これをきっかけに、白雲の元には、明治の元勲たちをはじめ、軍人、実業家、歴史上の人物などの銅像制作依頼が次々舞い込んだ。国会議事堂に残る伊藤博文像も、白雲の手によるものだ。手がけた銅像は数百体に及ぶとされ、多作ぶりに「銅像屋」と陰口もあった。だが、白雲に銅像を制作してもらうことが、ステータスにもなっていたという。
 太平洋戦争の戦局が厳しくなると、作品の多くは、寺の釣り鐘などとともに砲弾の材料として供出された。県内で残ったのは、海援隊や陸援隊を率いて軍に評価されていた龍馬像や中岡慎太郎像(室戸市)など、わずかだ。当時の白雲の内心を、「父は空襲があった夜、銅像の石膏製の原型を淡々と素手でたたき割り、母は無言で手を合わせていた」と、息子が伝えている。

漫画家・横山隆一も指導
 明治維新以降、東京で名を上げた宿毛出身者の中には、同郷の後輩の面倒を見るという美風があった。伊賀が白雲を支え、白雲もまた1907年、在京の土佐出身の芸術家たちと「土陽美術会」を結成。親交を深め、後輩たちを指導した。高知を代表する漫画家の横山隆一(1909~2001)もその一人だ。そんなつながりが明治から昭和にかけての政財界、文化、宗教など多彩な分野で活躍した20人あまりを、宿毛市から送り出したのだ。
 晩年、白雲は「彫刻家として大成したのは、お地蔵様のおかげ」と、宿毛市役所の北側にある城山墓地の地蔵堂に地蔵像を奉納したという。中には、白雲が贈ったとされる地蔵像が、今も安置されている。

高知桂浜の龍馬像作者・本山白雲。光雲の弟子の一人として、アウトラインは存じ上げていましたが、この記事を読んで、より人物像が明確になりました。

以前にもこのブログに書きましたが、光雲の白雲評、コピペします。

やはり谷中時代の人で、今日は銅像制作で知名の人となつてゐる、本山白雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官岩村通俊(いはむらみちとし)氏の書生をしてゐて、親を大切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参つて弟子になりたいといふことで、内弟子となつてゐました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔のことを忘れず、熱さ寒さ盆暮れには必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技術を持つた人です。(『光雲懐古談』昭和4年=1929)

ちなみに岩村通俊は、東京美術学校教授だった岩村透の伯父に当たり、その関係で白雲の美校入学につながったのでしょう。岩村透は、光雲に「あなたの生涯最大の傑作は、息子の光太郎君だ」と言ったり、光太郎に留学を強く勧めたりした人物です。

当方、白雲の作品は、高知桂浜の坂本龍馬像をはじめ、何点か拝見しましたが、特に印象に残っているのは、盛岡の岩手県公会堂前にある原敬像(昭和26年=1951)です。

005

ここにこれがあるというのを失念していて、たまたま通りがかって見つけました。

光太郎がこれをけちょんけちょんに(死語ですね(笑))けなしています。というか、これに限らず、白雲の胸像制作方法に関してですが、体の部分はレディーメードで顔だけその人物、胸の勲章も既に型が出来上がっていて貼り付けてある、時にその人物が貰わなかったはずの勲章までおまけしてつけている、など。光太郎、幼い頃、腕力の強かった白雲によくおんぶしてもらったそうですが、それとこれとは別、ということですね。

一般的に言えば、銅像は、「誰作ったか」より「誰作ったか」が優先される世界です。それはある意味、仕方がないことなのかも知れません。しかし、やはり作者の名も残していくべきでしょう。特に地方出身の作家の場合、やはり地方紙や主要新聞の地方版など、その人物の紹介をもっとお願いしたいものです。そういう意味で、この読売さんの記事はなかなかヒットだったと思います。


【折々のことば・光太郎】

いやしいことは決して為ないがいい。さもしい心は決して起こさぬがいい。品性を尚ぶ風が瀰漫したら、どんなに国民一般が生活しやすくなるかしれない。
散文「決戦時生活の基礎倫理」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

敗色濃厚となった時期の文章ですので、基本的には窮乏生活にも我慢して耐えろ、というコンセプトですが、部分的にはこのようにいいことも書いてあります。

永田町に巣喰う魑魅魍魎、そこから垂れ流される利権(見直しが発表されたナントカキャンペーンのような)や優遇(ナントカを見る会、など)に蟻のように群がる品性下劣な輩に叩きつけたいところです(笑)。