仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん。一面コラムの「河北春秋」、一昨日掲載分に光太郎の名が。
見上げる参道に人影はない。マスクを取り、石段を踏みしめる。仙台市太白区の愛宕神社。2体のてんぐ像がにらみを利かせる山門の脇に、その詩碑は立っている▼『化石を拾ふ』。石川善助(1901~32年)の絶唱が刻まれている。善助は仙台の裕福な商家に生まれたが、少年期に家産が傾き、いばらの道から抜け出せないまま事故死した。詩友には恵まれ、宮沢賢治、高村光太郎、草野心平らが早すぎる死を惜しんだ▼脚に障害があり、雪道などでよく転んだという。そのせいか、恋愛には臆病で、勤めていた呉服店の同僚や、詩作を指導した文学少女に思いを寄せたらしいが、実ることはなかった。後者の女性は親族の勧めで歯科医の小澤開作氏に嫁ぎ、4男を生んだ。第3子の名は征爾。かの世界的指揮者である▼善助は、上京を果たして5年目の梅雨時に、泥酔して大森駅(大田区)近くの溝に落ち、溺死した。仙台で葬儀が営まれたのは7月13日。その日を覚えているせいで、この時季になると、詩碑を訪ねたくなる▼昭和歌謡に、彼の作品が隠れているといわれる。いわゆるゴーストライター。善助が書いた詞を買い、名曲の作者として名を残した人もいることになる。詩碑の向こうのビル群を眺めつつ、人の運、不運にふと思いを巡らす。
石川善助は、当会の祖・草野心平主宰の『歴程』にも寄稿していました。そこで心平や、同人だった賢治・光太郎の名が出ているわけです。
画像は戦後の昭和27年(1952)に刊行された『現代詩集 歴程篇』。角川文庫です。編者は「歴程同人」となっていますが、ほぼほぼ心平が行ったと見ていいでしょう。
この詩集では、光太郎ら存命だった同人はもちろん、賢治や中原中也、八木重吉など物故同人の作品も収録され、石川のそれも載っています。
数え32歳で亡くなった石川、生前に詩集は刊行されませんでした。没後、遺構詩集として『亜寒帯』が刊行(昭和11年=1936)され、光太郎が序文を書いています。名文ですので、全文引用します。
ぐつと若い頃、漁船に乗り込んで鯨油をふんだんに飲んだので、石川善助は寒さといふものを知らなかつた。アスフアルトがかんかん音を立てる大寒の夜にかたびらのやうな着物を着てよく新宿の焼鳥屋に来た。寒さを知らない石川善助の詩に、しかも寒さが充満してゐた。寒さを知らないのは、自身寒さの太極に外ならなかつたからだ。彼は徹頭徹尾北方人であり、北方の持つ峭厲と皓旰と、規矩と結晶性と、海中火山のやうな晦冥と三貫島のやうな孤僻とを具備してゐた。彼はレオン ドウベルのやうな貧と、勤王の志士のやうな情操とに生きた。事実、彼は宮城の前を通る度に電車の中でも必ず敬礼するのを忘れなかつた。彼には祖先の血が多分に流れてゐた。彼の詩のイデオロギイにはそれ故一種特別な日本的、国土的の要素が盲管状に縦横に馳駆してゐた。その整備された形式の触感は鉱石の切断面に似、途轍もないあの癇高い爆笑の響が、金属性の詩語の間に潜められてゐた。彼は恰も風狂の徒のやうに路傍で死んで発見された。この痛ましい純情の詩人がどういふ位置を我が詩の歴史の上に持つか、其はもう少し歴史の上に持つか、其はもう少し歴史そのものが進展してから考へねばなるまい。彼の詩篇が蒐められて今初めて詩集となる。ありし日の彼を思ひ出して、まるで炸裂した榴弾を見るやうな気がする。
河北春秋 2020.7.14
石川善助は、当会の祖・草野心平主宰の『歴程』にも寄稿していました。そこで心平や、同人だった賢治・光太郎の名が出ているわけです。
画像は戦後の昭和27年(1952)に刊行された『現代詩集 歴程篇』。角川文庫です。編者は「歴程同人」となっていますが、ほぼほぼ心平が行ったと見ていいでしょう。
この詩集では、光太郎ら存命だった同人はもちろん、賢治や中原中也、八木重吉など物故同人の作品も収録され、石川のそれも載っています。
数え32歳で亡くなった石川、生前に詩集は刊行されませんでした。没後、遺構詩集として『亜寒帯』が刊行(昭和11年=1936)され、光太郎が序文を書いています。名文ですので、全文引用します。
ぐつと若い頃、漁船に乗り込んで鯨油をふんだんに飲んだので、石川善助は寒さといふものを知らなかつた。アスフアルトがかんかん音を立てる大寒の夜にかたびらのやうな着物を着てよく新宿の焼鳥屋に来た。寒さを知らない石川善助の詩に、しかも寒さが充満してゐた。寒さを知らないのは、自身寒さの太極に外ならなかつたからだ。彼は徹頭徹尾北方人であり、北方の持つ峭厲と皓旰と、規矩と結晶性と、海中火山のやうな晦冥と三貫島のやうな孤僻とを具備してゐた。彼はレオン ドウベルのやうな貧と、勤王の志士のやうな情操とに生きた。事実、彼は宮城の前を通る度に電車の中でも必ず敬礼するのを忘れなかつた。彼には祖先の血が多分に流れてゐた。彼の詩のイデオロギイにはそれ故一種特別な日本的、国土的の要素が盲管状に縦横に馳駆してゐた。その整備された形式の触感は鉱石の切断面に似、途轍もないあの癇高い爆笑の響が、金属性の詩語の間に潜められてゐた。彼は恰も風狂の徒のやうに路傍で死んで発見された。この痛ましい純情の詩人がどういふ位置を我が詩の歴史の上に持つか、其はもう少し歴史の上に持つか、其はもう少し歴史そのものが進展してから考へねばなるまい。彼の詩篇が蒐められて今初めて詩集となる。ありし日の彼を思ひ出して、まるで炸裂した榴弾を見るやうな気がする。
「新宿の焼鳥屋」は、心平が経営(といっても屋台ですが)していた「いわき」です。椅子は智恵子が提供したリンゴ箱でした。
「河北春秋」に紹介されている詩碑は、広瀬川の段丘上、太白区の愛宕神社さんにあるそうで、これは存じませんでした。折を見て行ってみようと思いました。
それから、ゴーストライター云々。調べてみましたところ、石川はニットーレコードから昭和7年(1932)にリリースされた「再生の港」という歌の作詞者として記録が残っていました。作曲は高峰龍雄、歌唱は貝塚正、それぞれ当方、寡聞にして存じません。これ以外にも、何か有名な曲の作詞をひそかに手がけていたということなのでしょうか。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。
いずれにせよ、『河北新報』さん、石川のような、まぁ、失礼ながらはっきり言えば忘れられつつある文学者に光を当てているわけで、こうした取り組みも地方紙の使命として大切なことと存じます。こうした動きが全国に広まってほしいものですね。
【折々のことば・光太郎】
ヱツチングは小生もリーチ以来常に試作を志してゐるものゝ未だ機会なくしてとりかゝりませんが今に積年の希望を一度に果し、多くの素描を片端から、ヱツチングしたいと思つてゐます。
「河北春秋」に紹介されている詩碑は、広瀬川の段丘上、太白区の愛宕神社さんにあるそうで、これは存じませんでした。折を見て行ってみようと思いました。
それから、ゴーストライター云々。調べてみましたところ、石川はニットーレコードから昭和7年(1932)にリリースされた「再生の港」という歌の作詞者として記録が残っていました。作曲は高峰龍雄、歌唱は貝塚正、それぞれ当方、寡聞にして存じません。これ以外にも、何か有名な曲の作詞をひそかに手がけていたということなのでしょうか。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。
いずれにせよ、『河北新報』さん、石川のような、まぁ、失礼ながらはっきり言えば忘れられつつある文学者に光を当てているわけで、こうした取り組みも地方紙の使命として大切なことと存じます。こうした動きが全国に広まってほしいものですね。
【折々のことば・光太郎】
ヱツチングは小生もリーチ以来常に試作を志してゐるものゝ未だ機会なくしてとりかゝりませんが今に積年の希望を一度に果し、多くの素描を片端から、ヱツチングしたいと思つてゐます。
散文「『画工志願』読後感」より 昭和8年(1933) 光太郎51歳
雑誌『ヱツチング』第6号に掲載された文章から。『画工志願』は同誌の編輯・発行に当たっていた西田武雄の著書です。
「リーチ」は、留学中のロンドンで知り合い、それが縁で来日した陶芸家のバーナード・リーチです。リーチは元々は陶芸を志していたわけではなく、来日当初はエッチングを教えて生活の糧とする計画でした。
ところで光太郎、意外と「有言不実行」的な部分があります。おそらくこの後もエッチングに取り組んだ形跡は確認できていません。もっとも、智恵子の心の病がのっぴきならぬところまで進んでいた時期ですし、その後は泥沼の戦争、それどころではなかったのかも知れませんが。
ただ、これ以外にも、「戯曲を執筆するつもり」「小説を書きたい」など、発言したあとに実現しなかった事柄がけっこうあります。まあ、そういう人間臭さも光太郎の魅力の一つではありますが。
「リーチ」は、留学中のロンドンで知り合い、それが縁で来日した陶芸家のバーナード・リーチです。リーチは元々は陶芸を志していたわけではなく、来日当初はエッチングを教えて生活の糧とする計画でした。
ところで光太郎、意外と「有言不実行」的な部分があります。おそらくこの後もエッチングに取り組んだ形跡は確認できていません。もっとも、智恵子の心の病がのっぴきならぬところまで進んでいた時期ですし、その後は泥沼の戦争、それどころではなかったのかも知れませんが。
ただ、これ以外にも、「戯曲を執筆するつもり」「小説を書きたい」など、発言したあとに実現しなかった事柄がけっこうあります。まあ、そういう人間臭さも光太郎の魅力の一つではありますが。