昨日、朝刊を開きましたら社会面にテノール歌手・永田峰雄氏の訃報。
『朝日新聞』さんから。
氏の所属事務所・株式会社AMATIさんののサイトから。
当方、直接は存じ上げない方でしたが、かつてCDを1枚、購入させていただきました。平成15年(2003)、カメラータトウキョウさんリリースの「別宮貞雄歌曲集「智恵子抄」/ロベルト・シューマン歌曲集「詩人の恋」」。歌唱が永田氏で、ピアノはアメリカのアントニー・シピリ氏。
一面コラム「天声人語」でも。
歌集『現代百人一首』が刊行されたのは25年前のこと。〈みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ〉。テレビで耳にしたCM短歌が、斎藤茂吉や釈迢空の歌と同格に扱われ、新鮮な驚きを覚えた▼その選者で、戦後歌壇を牽引(けんいん)した岡井隆さんが亡くなった。92歳。内科医にして歌会始の選者、皇族の和歌御用掛を務めたという経歴からは想像できないほど、その歩みは波乱に満ちている▼〈一時期を党に近づきゆきしかな処女(おとめ)に寄るがごとく息づき〉。慶応大学の医学生だったころ、マルクス主義にひかれた。共産党系の診療所に詰めていた一夜、警察の家宅捜索を受ける。「歌集や歌誌の原稿まで押収された」とかつて本紙の取材に語った▼家庭や名声をかなぐり捨て、若い女性と九州へ逃避行したのは40代。有名歌人の「蒸発」は騒動を招く。だがその女性とは長続きせず、九州の病院で働くことに。〈女(をみな)とは幾重(いくへ)にも線状(すぢ)あつまりてまたしろがねの繭と思はむ〉。後にそんな官能的な歌を詠んでいる▼「短歌は危機の時を通り越し、廃墟の残骸の中にある」と歌壇の行く末を案じた。「私自身は選歌・添削・講師としてその廃墟に立ち、わずかに再建を夢みている」と繰り返し語っている▼功成り名を遂げたあとも、円熟の歌境に安住することはなかった。ナンセンスなCMから独創的、実験的な作品にまで光を当て、歌の可能性を極限まで広げる。破格、破調の堂々たる生き方であった。
氏の御著書もかつて当方、一冊、購入いたしました。
岩波書店さんから、平成11年(1999)に刊行された『詩歌の近代』。タイトル通り近代詩歌の概説で、光太郎、特に戦争詩について取り上げて下さっています。
それから、至文堂さんから昭和59年(1984)に発行された雑誌『国文学 解釈と観賞』第49巻第9号「特集=高村光太郎」。岡井氏は「光太郎における短歌の役割」という論考を寄せられています。おそらく調べればこの手の雑誌等にもっと光太郎に言及したものもありそうですが、すぐ思い浮かんだのはこちらでした。
ご両人のご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
『朝日新聞』さんから。
テノール歌手、永田峰雄さん死去 欧州を拠点に活躍
永田峰雄さん(ながた・みねお=テノール歌手)が8日死去した。66歳だった。葬儀は近親者で営む。
91年にザルツブルク音楽祭に出演し、欧州を拠点に国際的に活躍。モーツァルトを得意とした。東京芸大、愛知県立芸大、洗足学園音大などで指導した。
氏の所属事務所・株式会社AMATIさんののサイトから。
ここに故人の数々の名演を胸に 哀悼の意をもってお知らせします
永田峰雄は新潟県長岡市に生まれ 東京芸術大学卒業 同大学院修了しました 1991年ザルツブルク音楽祭『サティリコン』に出演して以来 ドイツを拠点にヨーロッパで活躍しました ヴュルツブルク トリーア ギーセン ボン ミュンスター等の歌劇場と専属契約を結びモーツァルト歌手として様式感ある端正な歌唱と柔軟なベルカント唱法が絶賛されたことは広く知られています 日本においても新国立劇場 びわ湖ホール等で数々のオペラ公演 オーケストラとの共演で高い評価を得てまいりました 近年は東京藝術大学 愛知県立芸術大学 洗足学園音楽大学等で後進の指導にも情熱を注いでいました
当方、直接は存じ上げない方でしたが、かつてCDを1枚、購入させていただきました。平成15年(2003)、カメラータトウキョウさんリリースの「別宮貞雄歌曲集「智恵子抄」/ロベルト・シューマン歌曲集「詩人の恋」」。歌唱が永田氏で、ピアノはアメリカのアントニー・シピリ氏。
氏の訃報を受けて、昨日、久しぶりに聴いてみましたが、20年ほど前の録音で、そろそろ円熟期に入ろうかという氏の伸びやかな歌声、いい感じでした。
まだ新盤で手に入るようです。是非お買い求め下さい。
今朝は今朝で、やはり社会面に、宮中歌会始の選者も務められた歌人の岡井隆氏の訃報。やはり『朝日新聞』さんから。
まだ新盤で手に入るようです。是非お買い求め下さい。
今朝は今朝で、やはり社会面に、宮中歌会始の選者も務められた歌人の岡井隆氏の訃報。やはり『朝日新聞』さんから。
岡井隆さん死去 歌人、現代歌壇を牽引
前衛的な短歌の詠み手として知られ、現代歌壇を牽引(けんいん)し、皇族の和歌の相談役も務めた歌人の岡井隆(おかい・たかし)さんが10日、心不全で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。
1928年、名古屋市生まれ。46年に結社「アララギ」に入会。慶応大学医学部卒業後、内科医として病院に勤務する傍ら、歌を詠んだ。
終戦直後、短歌や俳句を格下の文学と見なす「第二芸術論」が起こると、それに応答する形で50年代半ばから、寺山修司や塚本邦雄とともに前衛短歌運動を展開。60年安保闘争といった社会の動きを、極めて実験的な表現で詠んだ。
70年には医師としての立場や歌壇での名声を捨てて九州へ出奔。5年間の沈黙を経て歌壇に復帰した。その後は、和歌のように韻律の美しさを重んじる作品や、口語と文語を自由に交ぜた歌など、短歌の可能性を極限まで追究した。
92~2014年に宮中歌会始の選者。かつてマルクス主義者を自称した歌人だっただけに、選者を引き受けた時は一部から批判が上がり、話題となった。07~18年には当時の天皇、皇后両陛下や皇族の和歌御用掛(ごようがかり)も務めた。
歌集「禁忌と好色」で迢空賞、「親和力」で斎藤茂吉短歌文学賞などを受賞。評論・エッセーなどを含む「岡井隆コレクション」で現代短歌大賞。詩人でもあり、「注解する者」で高見順賞を受けた。16年には文化功労者に選ばれた。文芸評論家としても活躍した。
代表歌に〈父よ父よ世界が見えぬさ庭なる花くきやかに見ゆといふ午(ひる)を〉「天河庭園集」、〈キシヲタオ……しその後(のち)に来んもの思えば夏曙(あけぼの)のerectio penis〉「土地よ、痛みを負え」などがある。
歌誌「未来」編集・発行人を最期まで務めた。
<歌人・細胞生物学者 永田和宏さんの話> 政治的なことも巧みな比喩で表現し、前衛短歌運動の一番の立役者。それまで「私」と言えば作者を指したが、その縛りから「私」を解放し、暗喩や口語文体を駆使して表現方法を広げ、一つの時代をつくった。医師でもあり、私がサイエンスの道との両立に悩んだ時、相談に乗ってもらったこともある。
(天声人語)岡井隆さん逝く
氏の御著書もかつて当方、一冊、購入いたしました。
岩波書店さんから、平成11年(1999)に刊行された『詩歌の近代』。タイトル通り近代詩歌の概説で、光太郎、特に戦争詩について取り上げて下さっています。
それから、至文堂さんから昭和59年(1984)に発行された雑誌『国文学 解釈と観賞』第49巻第9号「特集=高村光太郎」。岡井氏は「光太郎における短歌の役割」という論考を寄せられています。おそらく調べればこの手の雑誌等にもっと光太郎に言及したものもありそうですが、すぐ思い浮かんだのはこちらでした。
ご両人のご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
悠ゝ無一物満喫荒涼美 短句揮毫 昭和23年(1948) 光太郎66歳
元ネタがありまして、連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」(昭和22年=1947)に書かれた、「いま悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の一節です。他に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と書いた揮毫も存在します。こちらはそれらを漢文風にしたものですね。花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の厳しい自然環境を「荒涼の美」ととらえたわけですか。
昭和23年(1948)6月22日の日記には、「終日揮毫。有賀氏のため色紙に書く。「悠ゝ無一物満喫荒涼美」」の記述があります。有賀剛は、光太郎と交渉のあった彫刻家・笹村草家人の友人で、神田小川町に汁粉屋を営んでいました。