一昨日の『日本経済新聞』さんから。 

絵の具手作り、変わらない色を届けて3代100年 銀座の画材店「月光荘」、大正文化に恩返し 日比康造

東京・銀座8丁目の雑居ビルの中に月光荘はある000。創業は大正6年(1917年)。絵の具、絵筆、パレットからそれらを持ち運ぶバッグまですべてを自社で製造し販売する。100年を超える老舗は私で3代目となる。創業者は祖父の橋本兵蔵だ。もともと、絵が好きでたまらないから始めた店ではない。運命を変えたのは偶然の出会いだ。

祖父は富山で生まれ育ち、18歳で上京。郵便局員や運転手などをしながら暮らしていた。あるとき住み込みで働いていた家の向かいに、歌人の与謝野鉄幹、晶子夫妻が住んでいることを知った。夫妻の本を愛読していた祖父は、大胆にも家を訪ねた。親切に招き入れられ、「いつでも来なさい」と言われた。

そこでは素晴らしい出会いが待っていた。夫妻の家には北原白秋、石川啄木、高村光太郎などの詩人、藤島武二、梅原龍三郎、有島生馬などの画家など当時の文化人が集まっていた。交流を通し、祖父は芸術という世界の素晴らしさに心奪われるようになる。画材店を始めたのは、画家たちが絵の具に不満を持っているのを知ったからだ。

店名の月光荘は、鉄幹がフランスのヴェルレーヌの詩「月光と人」から引用して名付けてくれた。店のトレードマークのホルンは与謝野夫妻と交遊があった芥川龍之介らが考案してくれたもの。音を奏でて多くの人に集まってもらうという願いが込められている。

当時、店は銀座ではなく新宿にあった。銀座に移るのは戦争で新宿の店が焼け落ちたあとのことだ。建築設計は画家の藤田嗣治によるもので、パリにあるような当時としては珍しい造りだった。店にはカフェも併設されており、数多くの文化人が集まるサロンのような場所となっていった。

芸術の世界を教えてくれた人たちに恩返しをすることが祖父の願いだった。1940年に誕生した純国産絵の具第1号のコバルトブルーもそうした思いから生まれた。当時、絵の具はフランス頼りで、船便で到着までに2カ月はかかった。戦争が始まると外国からの輸入も途絶えた。

コバルトは特殊鋼の製造に使われるため、政府が各大学の研究室に開発を命じていたが、完成に至っていなかった。祖父は、専門書を読みあさり、原料の鉱物の焼成温度や時間を試行錯誤しながら執念で完成させた。軍からは供出の命令がきたが、絵の具以外の用途では決して首を縦に振らなかった。猪熊弦一郎、梅原龍三郎ら著名な画家も月光荘の絵の具をひいきにしてくれた。

私が知る祖父は晩年の姿だ。6歳の1年間、一緒に暮らした。明治の男らしく、寡黙で余計なことは言わず、背中で語る人だった。自分のやるべきことを黙々とやる姿に大きな影響を受けた。商売人というより、職人のような人だった。

時代が変わった今も、祖父のときのまま、絵の具はすべて手作りだ。顔料をバインダーと呼ぶ糊(のり)状のものとローラーで練り合わせる。作るのに8時間以上かかる色もあり、職人がつきっきりで作る。季節によっても色は変わってしまう。配合のレシピはあっても、同じ色にはならない。最後はやはり経験がものをいう。いつまでも変わらない同じ色を届ける。使ってくれる方々との約束を守るために、若い職人の育成にも力を注いでいる。

「色感は人生の宝物」。祖父は生前そう言っていた。素晴らしい色との出会いは人生を豊かにしてくれる。その思いを次の時代にも届けることが自分の使命と考えている。

(ひび・こうぞう=月光荘画材店店主)


月光荘画材店さん創業者の橋本兵蔵に関しては、与謝野夫妻を中心とした文献だったか、美術史を扱った文献だったかで読んだ記憶がありました。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が見えませんが。コバルトの軍への供出を拒んだというエピソード、いいですね。

名前といえば、この記事に出て来る面々、殆どすべて、光太郎となにがしかのつながりのあった人々です。

こういう人物の業績にも、もっともっと光が当たっていいように思われます。


【折々のことば・光太郎】

人間の不自由なんてものは、やっぱり一つの欲ですから、あの、欲、捨てっちまえば何でもない。
対談「朝の訪問」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

この年11月にNHK盛岡放送局で収録された対談の一節です。花巻郊外旧太田村での蟄居生活について。聞き手は同局アナウンサーと思われますが、詳細は不明。12月2日にラジオで放送予定だったのですが、なぜかお蔵入りとなりました。平成16年(2004)にNHKラジオセンターでそのオープンリールテープが発見され、カセットテープにダビングされたものが、故・北川太一先生経由で当方の元に。「文字起こしをしてくれ」とのことで。

10分ほどの長さだったと記憶していますが、結構大変でした。カセットデッキで再生 → 一時停止 → 鉛筆で筆記、の繰り返し。不明瞭な所は何度も巻き戻して(「巻き戻す」というのが、今の若い人にはもう通じないそうですが(笑))再生し、前後のつながりから「ああ、そういうことか」という場合もありました。光太郎、数え67歳のくせに(笑)結構早口でしたし。今となってはいい思い出です。