長野県松本平地区で発001行されている地域情報紙『市民タイムス』さん。時折、一面コラムで光太郎に言及して下さいますが、一昨日も。 

2020.7.5みすず野

こんなに静かな上高地は冬期を除けば初めてだった。ニッコウキスゲやレンゲツツジの花が咲き、梓川の向こうに六百山や霞沢岳がそびえていた。河童橋に都会風の二人連れの姿がちらほら。皆マスクを着けている。山の支度をした人はいなかった彫刻家で詩人の高村光太郎が上高地に滞在して展覧会に出す油絵を描いていた大正2 (1913)年9月、翌年に妻となる智恵子が訪ねて来る。もちろんバスなんか無い時代、 知らせを受けた光太郎は徳本峠を越えて岩魚留まで迎えに行った。その道をたどってみたかったのだ◆明神を経て峠まで7キロほど。さらに岩魚留へ4キロ近くある。恋しい人に会うため、山道を跳ぶ気持ちだっただろう。その思いは終生変わらなかった。 おかげで私たちは詩集『智恵子抄』を手に取り、優しい詩句を口ずさむことができる。〈 あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川〉◆明神池のほとりで、幼い男の子がうれしそうにぴょんぴょんと先へ走り、両親が後ろから見守り歩くのを見た。「坊や幾つ?」と尋ねると、得意げに指3本を立てる。「大きくなったら山へおいで」と願い、峠への登りにかかった。

コロナ禍による人出の減少上高地も例外ではないようですね。経済優先で考えれば大打撃でしょうが、本来の静謐な雰囲気が戻ったという意味では悪くないような気もします。ただ、あまりに閑散、ではやはり困りますが……。


【折々のことば・光太郎】

詩はわたしの安全辨  短句揮毫 戦後期? 光太郎65歳頃?


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大正12年(1923)の詩「とげとげなエピグラム」には、「詩はおれの安全辨」の一節があります。彫刻と詩、二本柱の光太郎芸術でしたが、彫刻は純粋に造形芸術たるべき、喜怒哀楽や思想信条などが反映されてはいかん、と、光太郎は考えていました。そこで、喜怒哀楽や思想信条などは詩で吐露しようとしたのです。

若し私が此の胸中の氤氳を言葉によつて吐き出す事をしなかつたら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢ひ、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。(「自分と詩との関係」 昭和15年=1940)

そういう意味での「安全辨」ですね。