最近手に入れた古いものシリーズです。
大正8年(1919)12月発行、『福島高等女学校同窓会報告』第拾四号。76ページある冊子です。「同窓会報告」と言っても、イベントとして旧交を温める「同窓会」の報告ではなく、組織としての「同窓会」の活動報告等です。
同校は、智恵子の母校。明治34年(1901)、生まれ育った安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校高等科を卒業し、第3学年に編入しました。この時、智恵子数え16歳です。卒業は同36年(1903)3月、卒業式では総代として答辞を読みました。4月には上京して日本女子大学校普通予科に進学しています。
智恵子に関して何か記述があるのでは、と思い、購入しました。すると、智恵子の書いた文章などは載っていませんでしたが、同窓会員の名簿に智恵子や妹たちの名。
智恵子は高村姓で記載されていました。この時点では入籍していない(入籍は統合失調症が昂進した昭和8年=1933)事実婚だったのですが、雑誌等に寄稿した智恵子の文章等、やはり高村姓となっており、不思議ではありません。「同」は「明治36年=1903卒」という意味での「同」です。
上の画像で、右から2人目~4人目、「長沼ミツ」、「関本ヨシ」、「長沼セツ」が、智恵子の妹たちです。
智恵子が長女でミツは三女。智恵子の6歳下です。ミツの「同」は「明治42年=1909卒」の意。智恵子より早く大正2年(1913)に結婚しましたが、夫のDVがひどく、大正7年(1918)には二人の子を連れて実家に帰っています。したがって、旧姓の「長沼」で名簿に載っていました。二人の子のうち、上の子が、のちに南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期(昭和13年=1938)を看取った春子。戦後になって、光太郎が間を取り持ち、詩人の宮崎稔と結婚しました。ミツ自身は結核を患い、大正11年(1922)に数え31歳の若さで歿しています。
ヨシは四女。明治28年(1895)生まれで智恵子より9歳下です。高等女学校は大正2年(1913)に卒業しています。智恵子の幼なじみ・関本ツギの弟の雄助と大正6年(1917)に結婚しましたが、こちらも昭和2年(1927)、数え33歳の若さで亡くなっています。産後の肥立ちが悪かったそうです。ちなみに筑摩書房『高村光太郎全集』他に掲載されている家系図では、ヨシの歿年齢を「29歳」としていますが、誤りです。計算が合いません。
五女はセツ。大正7年(1918)の卒業名簿に名がありました。のち斎藤新吉と結婚、昭和4年(1929)の長沼家破産後、千葉九十九里に落ち着き、母・センを引き取った他、同9年(1934)には半年余り、智恵子を自宅で療養させていました。
長女の智恵子以外にも、三女から五女まで、皆福島高等女学校の卒業だったのですね。この件は初めて確認できました。ちなみにセツの下にさらに六女のチヨがいたのですが、こちらは同校在学中に髄膜炎で急逝しています(大正8年=1919)。したがって同窓会名簿には載っていません。
ここで疑問が一つ。「次女はどうした?」。次女のセキは、智恵子より2歳下。智恵子と同じく日本女子大学校を卒業しています。ただ、智恵子は家政学部でしたがセキは教育学部でした。さらに言うなら、日本女子大学校を卒(お)えてから、東京高等女子師範学校の保育実習科に編入したらしく、明治45年(1912)の卒業生名簿にその名が見えます。ところが福島高等女学校の同窓会名簿にはその名がありません。
考えられる理由は二つ。
一つは、除籍されてしまった可能性。セキは大正4年(1915)、半ば逐電するように渡米しました。その背景には、漱石門下の小宮豊隆と不倫の関係となり、子をなしてしまったということがあります。その子は智恵子の同級生だった上野ヤス(旧姓・大熊、上記画像に名を載せました)の婚家(静岡沼津)で産み、里子に出されたそうです。そうした経緯から、除籍処分となった可能性が考えられます。智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した女子大学校の一年先輩・平塚らいてうも、やはり漱石門下の森田草平との心中未遂事件が元で、女子大学校同窓会の桜楓会から除籍されています(のちに復権)。
もう一つの可能性は、姉妹の中でセキだけが他の高等女学校に進んだということ。こちらの方が確率は高いのかな、という気がします。ただ、当時、県内の高等女学校は福島にしかありませんでしたので、そこでないとすると日本女子大学校の附属高等女学校ではないかと考えられます。そしてそのまま女子大学校に進んだ、と。平塚らいてうもそのコースでした。
このあたり、情報をお持ちの方はコメント欄等よりご教示いただければ幸いです。
こちらは明治41年(1908)頃の、平穏だった時期の長沼一家。この幸福そうな様子が長続きしなかったのかと思うと、胸が痛みますね……。
【折々のことば・光太郎】
大正8年(1919)12月発行、『福島高等女学校同窓会報告』第拾四号。76ページある冊子です。「同窓会報告」と言っても、イベントとして旧交を温める「同窓会」の報告ではなく、組織としての「同窓会」の活動報告等です。
同校は、智恵子の母校。明治34年(1901)、生まれ育った安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校高等科を卒業し、第3学年に編入しました。この時、智恵子数え16歳です。卒業は同36年(1903)3月、卒業式では総代として答辞を読みました。4月には上京して日本女子大学校普通予科に進学しています。
智恵子に関して何か記述があるのでは、と思い、購入しました。すると、智恵子の書いた文章などは載っていませんでしたが、同窓会員の名簿に智恵子や妹たちの名。
智恵子は高村姓で記載されていました。この時点では入籍していない(入籍は統合失調症が昂進した昭和8年=1933)事実婚だったのですが、雑誌等に寄稿した智恵子の文章等、やはり高村姓となっており、不思議ではありません。「同」は「明治36年=1903卒」という意味での「同」です。
上の画像で、右から2人目~4人目、「長沼ミツ」、「関本ヨシ」、「長沼セツ」が、智恵子の妹たちです。
智恵子が長女でミツは三女。智恵子の6歳下です。ミツの「同」は「明治42年=1909卒」の意。智恵子より早く大正2年(1913)に結婚しましたが、夫のDVがひどく、大正7年(1918)には二人の子を連れて実家に帰っています。したがって、旧姓の「長沼」で名簿に載っていました。二人の子のうち、上の子が、のちに南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期(昭和13年=1938)を看取った春子。戦後になって、光太郎が間を取り持ち、詩人の宮崎稔と結婚しました。ミツ自身は結核を患い、大正11年(1922)に数え31歳の若さで歿しています。
ヨシは四女。明治28年(1895)生まれで智恵子より9歳下です。高等女学校は大正2年(1913)に卒業しています。智恵子の幼なじみ・関本ツギの弟の雄助と大正6年(1917)に結婚しましたが、こちらも昭和2年(1927)、数え33歳の若さで亡くなっています。産後の肥立ちが悪かったそうです。ちなみに筑摩書房『高村光太郎全集』他に掲載されている家系図では、ヨシの歿年齢を「29歳」としていますが、誤りです。計算が合いません。
五女はセツ。大正7年(1918)の卒業名簿に名がありました。のち斎藤新吉と結婚、昭和4年(1929)の長沼家破産後、千葉九十九里に落ち着き、母・センを引き取った他、同9年(1934)には半年余り、智恵子を自宅で療養させていました。
長女の智恵子以外にも、三女から五女まで、皆福島高等女学校の卒業だったのですね。この件は初めて確認できました。ちなみにセツの下にさらに六女のチヨがいたのですが、こちらは同校在学中に髄膜炎で急逝しています(大正8年=1919)。したがって同窓会名簿には載っていません。
ここで疑問が一つ。「次女はどうした?」。次女のセキは、智恵子より2歳下。智恵子と同じく日本女子大学校を卒業しています。ただ、智恵子は家政学部でしたがセキは教育学部でした。さらに言うなら、日本女子大学校を卒(お)えてから、東京高等女子師範学校の保育実習科に編入したらしく、明治45年(1912)の卒業生名簿にその名が見えます。ところが福島高等女学校の同窓会名簿にはその名がありません。
考えられる理由は二つ。
一つは、除籍されてしまった可能性。セキは大正4年(1915)、半ば逐電するように渡米しました。その背景には、漱石門下の小宮豊隆と不倫の関係となり、子をなしてしまったということがあります。その子は智恵子の同級生だった上野ヤス(旧姓・大熊、上記画像に名を載せました)の婚家(静岡沼津)で産み、里子に出されたそうです。そうした経緯から、除籍処分となった可能性が考えられます。智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した女子大学校の一年先輩・平塚らいてうも、やはり漱石門下の森田草平との心中未遂事件が元で、女子大学校同窓会の桜楓会から除籍されています(のちに復権)。
もう一つの可能性は、姉妹の中でセキだけが他の高等女学校に進んだということ。こちらの方が確率は高いのかな、という気がします。ただ、当時、県内の高等女学校は福島にしかありませんでしたので、そこでないとすると日本女子大学校の附属高等女学校ではないかと考えられます。そしてそのまま女子大学校に進んだ、と。平塚らいてうもそのコースでした。
このあたり、情報をお持ちの方はコメント欄等よりご教示いただければ幸いです。
こちらは明治41年(1908)頃の、平穏だった時期の長沼一家。この幸福そうな様子が長続きしなかったのかと思うと、胸が痛みますね……。
【折々のことば・光太郎】
わたつみに敵をうつ 短句揮毫 昭和19年(1944) 光太郎62歳
平成16年(2004)頃、都内ご在住の藤尾正人氏のお宅に拝見にあがりました。氏が海軍に出征される際、日章旗に寄せ書きをして貰ったうちの一人が光太郎で、この一言を書いてくれたそうです。
詳しくはこちら。
幸い、氏は無事に復員できましたが、同じように光太郎の元を訪れてから出征し、還らぬ人となった若者も多数いたわけで、そういった意味では光太郎の「負の遺産」の代表例です。
詳しくはこちら。
幸い、氏は無事に復員できましたが、同じように光太郎の元を訪れてから出征し、還らぬ人となった若者も多数いたわけで、そういった意味では光太郎の「負の遺産」の代表例です。