昨日は都内に出て、2箇所を廻っておりました。

まずは文京区春日の講道館。柔道の聖地です。

息子が柔道をやっており、その息子が出場する大会が昨日と今日、行われています(今日は講道館ではなく別の会場ですが)。こちらは年に一回、全国持ち回りで行われているもので、一昨年は京都、昨年は仙台でした。さすがに千葉からそこまで観に行くほど親バカではありません。しかし、今年は東京、さらに昨日の会場が講道館ということで、観に行きました(また、後述しますが、歩いて行ける範囲にある東京古書会館での「七夕古書大入札会2016」の一般下見展観もありましたので)。

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なぜ講道館にこだわるかというと、当方も講道館柔道初段を持っているということもありますが、やはり光太郎がらみです。意外といえば意外ですが、光太郎と講道館には関係があります。下記画像をご覧下さい。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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講道館柔道の祖・嘉納治五郎師範の肖002像レリーフです。この作者が光太郎なのです。昭和9年(1934)、父・光雲の代作として制作されました。

これが講道館の2階にある柔道資料館に展示されているはずですので、見てこようと思った次第です。

作品自体はブロンズですので、同一の型から取ったものが多数存在し、これまでに開催された光太郎がらみの企画展にもよく出品されていて、何度も見ています。しかし、やはり柔道の聖地・講道館に所蔵のものとなると、ある意味、別格のような気がします。

ところが、柔道資料館、土・日・祝日は休館でした。残念。

息子の試合は、一試合だけ見ました。講道館柔道を母体とする通常の国際ルールの試合ではなく、「高専柔道」という、特殊な柔道です。

試合は団体戦のみで、7チームが参加。15人対15人というすさまじい人数での闘いです。ちなみに試合時間は8分、凄い長さです(オリンピックは5分)。さらに先鋒対先鋒、次鋒対次鋒という「点取り方式」ではなく、勝った選手は相手チームの次の選手と続けて試合をするという「勝ち抜き戦」です。したがって、理論上1人で相手チーム15人を全員抜くことも可能なわけです(実際にはあり得ませんが)。

息子のチームは一昨年は準優勝、昨年は優勝しました。今年もその調子で、と思っていたのですが、何と一回戦敗北(涙)。息子は引き分けでした。勝てる相手だったのですが、相手は最初から引き分け狙い。国際ルールと異なり、消極的だという意味での「指導」がほとんど与えられませんので、引き分け狙いが可能です。息子も引き分け狙いの相手を強引に仕留めるだけの実力はなく、情けない試合でした。しかし、8分間、相手の猛攻を凌ぐというのも、それはそれで大変なことですし、高専柔道の場合にはそうした「分け役」という役どころが存在し、相手はきっちりその役を果たした、ということですね。相手を褒めましょう。

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その一回戦だけ見て、次なる目的地、神田の東京古書会館さんに移動したのですが、その後、息子のチームは敗者復活戦に廻って、そちらは勝利。今度は息子は1勝1分けだったそうで、多少は貢献できたようです。敗者復活に廻っても、その後勝ち上がれば優勝できるという変則的なルールですので、まだどうなるかわかりません。

続きは会場を移して今日行われますが、今日は当方、山梨県立文学館さんに、渡辺えりさんの講演を聴きに行って参ります。試合結果はネット上の速報で見ます。


さて、神田の東京古書会館さんでの「七夕005古書大入札会」一般下見展観。年に一度の古書業界最大の市です。古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆もの等も含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。

昨年は光太郎がらみの品にめぼしいものがなかったので行きませんでしたが、今年は「これは」と思うものが多く、観に行った次第です。

たまたま光太郎がらみの品の並ぶ一角に、いつも目録を送って下さり、当会顧問の北川太一先生とも関係の深い、本郷の森井書店さんが若い店員さんを連れていらっしゃっていて、一緒に拝見させていただきました。

明治44年(1911)、画家の山下新太郎に宛てた長い書簡が一番の目的でした。こちらは『高村光太郎全集』未収録で、公開されている画像は部分的にしか写って居らず、どんな内容なのか、是非読んでみたかったものです。

毛筆の崩し字で、ところどころ判読に苦労しましたが、三人寄れば文殊の知恵、ほぼ読めました。といってもほとんど森井さんが読んで下さったので、大感謝です。

最低落札価格の設定額が低かった書の二点は、予想通り保存状態が良くないものでした。筆跡的にはいいものなのですが……。その他、草稿や書簡、識語署名入りの著書など、光太郎の息吹が感じられる品々を手に取ることができ、こうした場合のいつもながらに、感激でした。

残念だったのは、最も驚いた出品物、昭和19年(1944)の詩集『記録』の草稿のみ、ガラスケースに入れられていて、手に取れなかったことでした。こちらの最低落札価格は100万円。他の作家の品も、このレベル以上のものはガラスケース入りの「特別陳列」でした。

色々な出品物、他の作家のものも含め、納まるべきところに納まってほしいものです。


さて、今日は先述の通り、山梨行きです。来週は盛岡(花巻にも寄るつもりです)、月末にまた花巻、来月前半は信州安曇野、三陸女川と、しばらく出張が続きます。風来坊(死語?)の本領発揮です(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

見ずやこれ富士は何山(なにやま)足柄の野より二尺は高しともこそ

明治34年(1901) 光太郎19歳

山梨といえば、富士山。当方、中高生の頃、4年近く甲府に住んでおりましたので、毎日のように雄大な富士山を見ていました。ある意味、人生観が変わりましたね。

ただ、短歌は足柄ですから、太平洋側のいわゆる「表富士」。しかし、山梨県民は山梨県側から見る富士山こそが「表富士」だ、と言い張ります。一昨年のNHKさんの「花子とアン」でも、主人公・村岡花子の祖父(石橋蓮司さん)のセリフにそれがありました。