『毎日新聞』さん。「文化の森 Bunka no mori」欄に、「今よみがえる森鷗外」という連載が為されています。「2022年に没後100年を迎える森鴎外。毎回筆者とテーマを変えて、作品に現代の光を当て読み解きます。」というコンセプトだそうで。
6月14日(日)の第15回は、島根県立石見美術館専門学芸員・川西由里氏による「美術界に残した足跡 一歩退き冷静に見つめ」でした。
ご覧の通り長いので、全文は引用しませんが、東京美術学校で鷗外の「美学」の講義を受けた光太郎に関わる部分のみ。
また鷗外は、大正六年発表の「観潮楼閑話」において、彫刻家、高村光太郎と交わした議論の一部を次のように記した。
「君は多く捨てて少く取り、わたくしはこれに反しているだけである。それゆえ君の目から見れば、わたくしは泛(はん)なるが如(ごと)くに見ゆるであらう。君の愛する所の『全か無か』の如きは、わたくしと雖(いえども)又愛する」、「併(しか)し人の製作品を鑑賞することとなると、一歩退いて看(み)なくてはならない。そうでないと展覧会などは成立しない」。
宮も高村も、大正期の新思潮の中で新しい表現を模索した、鷗外から見れば次の世代だ。かつて原田とともに、血気盛んに論戦に挑んだ経験があるからこそ、若者たちの苛立(いらだ)ちも理解できたのだろう。表現者として、美術家への共感も示されている。
その一方、「M君」に語った台詞(せりふ)からは、若い芸術家を育てようとする気持ちと、自分の判断に対する謙虚な姿勢がうかがえる。そして高村に向けた言葉からは、審査委員という立場で芸術振興を担う者としては、 たとえ生ぬるいと思われたとしても、寛容を旨として作品と向き合う姿勢が読みとれる。
こうした心構えが、展覧会運営や作品批評にとって重要であることは、今も変わりない。 感情的、反射的な批判が飛び交い、「全か無か」を迫られがちな現代こそ、「一歩退いて看」る鷗外の態度に学ぶところは大きいのではないだろうか。
「高村光太郎と交わした議論」は、大正6年
(1917)、元々は光太郎が自分の悪口を言いふらしている、と聞いた鷗外が、光太郎を呼びつけたことに始まります。時に光太郎数え35歳、血気盛んな青年でした。対する鷗外は同じく56歳、晩年にさしかかる頃です。
「宮」、「M君」は宮芳平。光太郎とも交流のあった画家です。光太郎に関する部分の前に、宮と鷗外の関わりが述べられており、ざっくり要約すれば、鷗外が審査員を務めていた文展で、宮が落選となり、納得行かなかった宮が観潮楼に乗り込んだという件に関してです。宮は光太郎より10歳年下でした。
そういえば、偶然ですが、このブログで一昨日、昨日とご紹介した信州安曇野の豊科近代美術館さん、宮の作品を多数所蔵、常設展示で出しています。宮は永らく信州諏訪で美術教師を務めていました。下の方に同館パンフからスキャンしたものを載せておきます。
ところで鷗外、光太郎が私淑したロダンにも興味を持ち、ロダンが唯一モデルにした日本人・花子(太田ひさ)をめぐる短編小説「花子」(明治43年=1910)も書いています。光太郎は評伝『ロダン』(昭和2年=1927)執筆のため、花子に会いに岐阜へ行きました。今後の「今よみがえる森鷗外」の中で、そのあたりにも触れていただければ幸いなのですが……。
【折々のことば・光太郎】
人から助けられるのがきらい、自分のことは自分でやる、出来ないことはやらないまでだ。
6月14日(日)の第15回は、島根県立石見美術館専門学芸員・川西由里氏による「美術界に残した足跡 一歩退き冷静に見つめ」でした。
ご覧の通り長いので、全文は引用しませんが、東京美術学校で鷗外の「美学」の講義を受けた光太郎に関わる部分のみ。
また鷗外は、大正六年発表の「観潮楼閑話」において、彫刻家、高村光太郎と交わした議論の一部を次のように記した。
「君は多く捨てて少く取り、わたくしはこれに反しているだけである。それゆえ君の目から見れば、わたくしは泛(はん)なるが如(ごと)くに見ゆるであらう。君の愛する所の『全か無か』の如きは、わたくしと雖(いえども)又愛する」、「併(しか)し人の製作品を鑑賞することとなると、一歩退いて看(み)なくてはならない。そうでないと展覧会などは成立しない」。
宮も高村も、大正期の新思潮の中で新しい表現を模索した、鷗外から見れば次の世代だ。かつて原田とともに、血気盛んに論戦に挑んだ経験があるからこそ、若者たちの苛立(いらだ)ちも理解できたのだろう。表現者として、美術家への共感も示されている。
その一方、「M君」に語った台詞(せりふ)からは、若い芸術家を育てようとする気持ちと、自分の判断に対する謙虚な姿勢がうかがえる。そして高村に向けた言葉からは、審査委員という立場で芸術振興を担う者としては、 たとえ生ぬるいと思われたとしても、寛容を旨として作品と向き合う姿勢が読みとれる。
こうした心構えが、展覧会運営や作品批評にとって重要であることは、今も変わりない。 感情的、反射的な批判が飛び交い、「全か無か」を迫られがちな現代こそ、「一歩退いて看」る鷗外の態度に学ぶところは大きいのではないだろうか。
「高村光太郎と交わした議論」は、大正6年

「宮」、「M君」は宮芳平。光太郎とも交流のあった画家です。光太郎に関する部分の前に、宮と鷗外の関わりが述べられており、ざっくり要約すれば、鷗外が審査員を務めていた文展で、宮が落選となり、納得行かなかった宮が観潮楼に乗り込んだという件に関してです。宮は光太郎より10歳年下でした。
そういえば、偶然ですが、このブログで一昨日、昨日とご紹介した信州安曇野の豊科近代美術館さん、宮の作品を多数所蔵、常設展示で出しています。宮は永らく信州諏訪で美術教師を務めていました。下の方に同館パンフからスキャンしたものを載せておきます。
ところで鷗外、光太郎が私淑したロダンにも興味を持ち、ロダンが唯一モデルにした日本人・花子(太田ひさ)をめぐる短編小説「花子」(明治43年=1910)も書いています。光太郎は評伝『ロダン』(昭和2年=1927)執筆のため、花子に会いに岐阜へ行きました。今後の「今よみがえる森鷗外」の中で、そのあたりにも触れていただければ幸いなのですが……。
【折々のことば・光太郎】
人から助けられるのがきらい、自分のことは自分でやる、出来ないことはやらないまでだ。
談話筆記「おめでとう記者訪問」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳
花巻郊外旧太田村の山小屋での発言です。村人の様々な援助、「ありがた迷惑だからほっといてくれ」というより「申し訳ないから遠慮します」というニュアンスです。「身の丈にあったことさえできればいいので」的な。
もっとも、少しは「ありがた迷惑だからほっといてくれ」も無きにしもあらず。村人が光太郎にアトリエを寄贈する、などという不確かな話が新聞に載ったりしましたので。
それにしても、「出来ないことはやらないまでだ」という開き直り、若者がこうでは困りますが、齢(よわい)69歳ともなると、深い一言ですね。
もっとも、少しは「ありがた迷惑だからほっといてくれ」も無きにしもあらず。村人が光太郎にアトリエを寄贈する、などという不確かな話が新聞に載ったりしましたので。
それにしても、「出来ないことはやらないまでだ」という開き直り、若者がこうでは困りますが、齢(よわい)69歳ともなると、深い一言ですね。