地方紙『岩手日日』さんに載った記事を2本。
まずは何度かお伝えしている、花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの方々による手作り光太郎マスクの件で、6月6日(土)の掲載です。
緊急事態宣言解除などを受け1日から再開した高村光太郎記念館(花巻市太田)で、同館スタッフ手作りのマスクが人気を集めている。花巻空襲時の救護者をたたえた光太郎詩「非常の時」の一節を印字した紙片を同封し、コロナ禍という「非常の時」を生きる来館者の感動を呼んでいる。
同館では2019年秋、光太郎が山口小学校(現在は花巻市立太田小学校と統合)に贈った「正直親切」の文字とイラスト、館名などを染めた手拭いを製作。今春のコロナ休館期間を利用し手拭いを裁断、各地で品不足となっていたマスクに作り替えた。
製作に当たったスタッフ9人は、感染拡大という混乱を戦時下の苦難になぞらえ、紙片同封を発案。11年の東日本大震災発生時にも人々の共感を呼んだ「人安きをすてて人を救ふは難いかな 人危きを冒して人を護るは貴いかな」の文字で、奮闘する医療者らに感謝を伝えている。
手拭いのデザイン画は、花巻高村光太郎記念館職員の三上昭子さんが担当。消しゴムはんこの技法で描かれた図柄がかわいらしく、手拭い裁断の位置によっては「正直親切」の文字がマスク上できれいに確認できる。「職員全員で意見を出し、何パターンも試作して出来上がった。コロナが流行し始めた頃から『非常の時』とリンクする部分を皆が感じ、製作することになったマスク。リピーターも多い」と喜ぶ。
マスクは1枚300円。開館は午前8時30分~午後4時30分。問い合わせは同館=0198(28)3012まで。
この記事が載ったことで、「さらに相乗効果的に売り上げが伸び、翌日には15セットも売れたそうです。
「非常の時」と手作りマスクに関しては、以下の過去記事をご参照下さい。
光太郎の食卓カレンダーとマスク型紙・素材(手ぬぐい)セット。もう1件、昨日も同じ『岩手日日』さんに光太郎がらみの記事が出ました。 花巻ゆかりの詩人で彫刻家・高村光太郎作の詩「雲」が掲載された雑誌が花巻市内で見つかり、関係者の関心を集めている。発行から70年以上が経過したとは思えないほど保存状態が良く、資料的価値も高いとみられている。
雑誌は1946(昭和21)年7月発行の「週刊少国民」。紙面はカラーページやイラスト、写真も多く、明るさを取り戻しつつある戦後世相を感じさせる。花巻市内の民家で発見されたことから、全国的に見ても相当数が発行されていたことが推測される。
「雲」は、同年6月14日光太郎の制作とされる詩。20行足らずの短さだが「太陽に色どられた空中のパレツト」「光とかげとの運動会」といったイメージ豊かな表現が印象に残る。発見に携わった同市中北万丁目のAct21主宰・菅原唯夫さん(71)は「70年前にこのような作品を生み出したことがすごい」と話す。
昭和21年の光太郎は、同詩のほか「絶壁のもと」などを制作。光太郎の体調が思わしくなかった頃で、比較的詩作の少なかった年という。
ニュースバリューということを問題にすると、ものすごく稀少な雑誌ではないので、それほどの件ではないのですが、「発行から70年以上が経過したとは思えないほど保存状態が良く」というあたり、それから、作品が書かれた花巻で見つかったというあたりに価値があるような気がします。
『週刊少国民』、「少国民」の語からして怪しさが漂いますが、お察しの通り、戦時中に創刊された子供向け雑誌です。版元はなんとまあ、朝日新聞社さんでした。戦時中から光太郎はたびたび寄稿していました。確認できている光太郎の寄稿は以下の通りです。
このうち、「神風」のみ散文で、あとは詩です。当然のように戦時中のものは、少年向けの翼賛詩。「君たちも早く成長してお国のために命を捧げなさい」的な……。残念ながら読むに堪えない「痛い」ものばかりです(ところがこの手の詩こそ光太郎の真骨頂だと、涙を流してありがたがる愚か者がいまだにいるのですが)。
さすがに「雲」は戦後の作で、翼賛色はなくなっています。ただ、戦後になって「少国民」でもあるまい、ということで、この年の9月には廃刊となっています。あるいはGHQの指導が入ったかもしれません。
記事の最後に「昭和21年の光太郎は、同詩のほか「絶壁のもと」などを制作。光太郎の体調が思わしくなかった頃で、比較的詩作の少なかった年という。」とあり、確かにそういう面もあったとは思いますが、それよりも、翌年に発表した己の半生を綴りつつ戦争責任を懺悔した、20篇からなる連作詩「暗愚小伝」の構想、執筆にかかっていたのも、発表作の少なかった理由と考えられます。
そうした思いを抱きつつ、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)、そして隣接する花巻高村光太郎記念館さん、6月1日(月)から再開しました。コロナ禍が落ち着いたら、ぜひ足をお運びいただき、光太郎の思いに触れていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
ぼくは、あそこでだんだんやつているうちに、これが本当の生活で、東京の連中は、みんなうその生活をしている。ここが世界の中心だと思うようになり、あそこを世界のメトロポリスにしようと考えた。それであそこに短波を備えつけて、どことでも通信できるようになれば、東京にいるよりもよほどいいと思つた。
まずは何度かお伝えしている、花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの方々による手作り光太郎マスクの件で、6月6日(土)の掲載です。
共感呼ぶ「非常の時」 手作りマスク人気 高村光太郎記念館 一節印字した紙片同封も 【花巻】
同館では2019年秋、光太郎が山口小学校(現在は花巻市立太田小学校と統合)に贈った「正直親切」の文字とイラスト、館名などを染めた手拭いを製作。今春のコロナ休館期間を利用し手拭いを裁断、各地で品不足となっていたマスクに作り替えた。
製作に当たったスタッフ9人は、感染拡大という混乱を戦時下の苦難になぞらえ、紙片同封を発案。11年の東日本大震災発生時にも人々の共感を呼んだ「人安きをすてて人を救ふは難いかな 人危きを冒して人を護るは貴いかな」の文字で、奮闘する医療者らに感謝を伝えている。
手拭いのデザイン画は、花巻高村光太郎記念館職員の三上昭子さんが担当。消しゴムはんこの技法で描かれた図柄がかわいらしく、手拭い裁断の位置によっては「正直親切」の文字がマスク上できれいに確認できる。「職員全員で意見を出し、何パターンも試作して出来上がった。コロナが流行し始めた頃から『非常の時』とリンクする部分を皆が感じ、製作することになったマスク。リピーターも多い」と喜ぶ。
マスクは1枚300円。開館は午前8時30分~午後4時30分。問い合わせは同館=0198(28)3012まで。
この記事が載ったことで、「さらに相乗効果的に売り上げが伸び、翌日には15セットも売れたそうです。
「非常の時」と手作りマスクに関しては、以下の過去記事をご参照下さい。
光太郎の食卓カレンダーとマスク型紙・素材(手ぬぐい)セット。もう1件、昨日も同じ『岩手日日』さんに光太郎がらみの記事が出ました。
高村光太郎詩「雲」掲載 70年以上前の雑誌発見 【花巻】
雑誌は1946(昭和21)年7月発行の「週刊少国民」。紙面はカラーページやイラスト、写真も多く、明るさを取り戻しつつある戦後世相を感じさせる。花巻市内の民家で発見されたことから、全国的に見ても相当数が発行されていたことが推測される。
「雲」は、同年6月14日光太郎の制作とされる詩。20行足らずの短さだが「太陽に色どられた空中のパレツト」「光とかげとの運動会」といったイメージ豊かな表現が印象に残る。発見に携わった同市中北万丁目のAct21主宰・菅原唯夫さん(71)は「70年前にこのような作品を生み出したことがすごい」と話す。
昭和21年の光太郎は、同詩のほか「絶壁のもと」などを制作。光太郎の体調が思わしくなかった頃で、比較的詩作の少なかった年という。
ニュースバリューということを問題にすると、ものすごく稀少な雑誌ではないので、それほどの件ではないのですが、「発行から70年以上が経過したとは思えないほど保存状態が良く」というあたり、それから、作品が書かれた花巻で見つかったというあたりに価値があるような気がします。
『週刊少国民』、「少国民」の語からして怪しさが漂いますが、お察しの通り、戦時中に創刊された子供向け雑誌です。版元はなんとまあ、朝日新聞社さんでした。戦時中から光太郎はたびたび寄稿していました。確認できている光太郎の寄稿は以下の通りです。
このうち、「神風」のみ散文で、あとは詩です。当然のように戦時中のものは、少年向けの翼賛詩。「君たちも早く成長してお国のために命を捧げなさい」的な……。残念ながら読むに堪えない「痛い」ものばかりです(ところがこの手の詩こそ光太郎の真骨頂だと、涙を流してありがたがる愚か者がいまだにいるのですが)。
さすがに「雲」は戦後の作で、翼賛色はなくなっています。ただ、戦後になって「少国民」でもあるまい、ということで、この年の9月には廃刊となっています。あるいはGHQの指導が入ったかもしれません。
記事の最後に「昭和21年の光太郎は、同詩のほか「絶壁のもと」などを制作。光太郎の体調が思わしくなかった頃で、比較的詩作の少なかった年という。」とあり、確かにそういう面もあったとは思いますが、それよりも、翌年に発表した己の半生を綴りつつ戦争責任を懺悔した、20篇からなる連作詩「暗愚小伝」の構想、執筆にかかっていたのも、発表作の少なかった理由と考えられます。
そうした思いを抱きつつ、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)、そして隣接する花巻高村光太郎記念館さん、6月1日(月)から再開しました。コロナ禍が落ち着いたら、ぜひ足をお運びいただき、光太郎の思いに触れていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
ぼくは、あそこでだんだんやつているうちに、これが本当の生活で、東京の連中は、みんなうその生活をしている。ここが世界の中心だと思うようになり、あそこを世界のメトロポリスにしようと考えた。それであそこに短波を備えつけて、どことでも通信できるようになれば、東京にいるよりもよほどいいと思つた。
座談会筆録「詩の生命」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳
「あそこ」が、花巻郊外旧太田村です。「短波を備えつけて」云々は、いわば「テレワーク」、「リモート会議」といったことに繋がるでしょうか。そういう部分での先見性も、光太郎は持ち合わせていました。