一昨日、「伊藤信吉没後10年記念展」を観に行った高崎の群馬県立土屋文明記念文学館へは、自家用車で行きました。もう一カ所、お目当ての場所があったためです。
 
群馬県立土屋文明記念文学館を後にし、前橋インターから関越自動車道に乗り、南下。埼玉県に入ってしばらく走り、東松山インターで関越道を下りました。そのまま更に一般道を南下、目指すは東武東上線の高坂駅です。
 
高坂駅から西にのびる通りは、「彫刻通り」と名付けられ、光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚(明33=1900~昭62=1987)の作品が32体、配されています。なぜここに、というと、昭和57年(1982)に、高田が東松山市で講演と彫刻展を行ったことがきっかけだそうで、おそらく当時の教育長で、やはり光太郎と交流のあった田口弘氏の尽力があったのではないかと推測されます。同市の新宿小学校には、田口氏の尽力で、光太郎の筆跡を刻んだ「正直親切」の石碑が昭和58年(1983)に建立されています。

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彫刻群の設置は昭和61年(1986)、高坂駅西口の区画整理に伴ってことでした。
 
ただ光太郎と交流があった彫刻家の作品群、というだけでなく、ずばり「高村光太郎」像があるので、今回、足をのばしたわけです。以前からそれがあるというのは知っていましたが、なかなか機会がなく、延び延びになっていました。新宿小の石碑は以前に見に行ったのですが、その時には高坂駅前の彫刻の存在を知りませんでした。当方、やはり子供の頃、東松山に3年余り住んでいたのですが、離れて数十年経つと疎くなります。
 
さて、こちらが光太郎像。

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昭和34年(1959)の作です。晩年の光太郎の肖像ということでしょう。何だか古代ギリシャの哲人の像、といっても通用しそうです。

ここの作品には、高田の一言がそれぞれの台座に刻まれています。曰く、
 
日本の彫刻界で彼のように聡明確実な腕を持った者は一人もいなかった。 その上彼の世間を相手にしない孤高な魂はそれに気品を与えた。彼は木盆にヴェルレーヌの、 「われは選ばれたる者の怖れと喜びを持つ」を原語で自ら彫りつけていた。
 
光太郎本人をよく知る高田の言ということで、興味深いものがあります。
 
ちなみに「ここの」、と書きましたが、同じ原型から鋳造された光太郎像は、岩手花巻の花巻北高校校庭にもあります。こちらは昭和51年(1976)の設置。光太郎詩「岩手の人」の一節が台座に刻まれています。
 
岩手の人 沈深牛の如し。両角の間に天球をいだいて立つ かの古代エジプトの石牛に似たり。地を往きて走らず、企てて、草卒ならず、つひにその成すべきを成す。

同校と光太郎に直接の関連はありませんが,光太郎の精神に共鳴した同校卒業生父兄らによって建立されました。

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さらにもう一点、屋内展示ですが、信州塩尻の古田晃記念館にもこの光太郎像が収蔵されています。古田晃は筑摩書房の創立者で、やはり光太郎と交流がありました。
 
探せばまだ全国の美術館等のどこかにある016のかも知れません。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。
 
高坂駅西口の高田博厚彫刻群。宮沢賢治もいました。
 
こちらも凛とした感じですね。
 
さて、今日、明日と1泊2日で、岡山に行ってきます。
 
1/16のブログで御紹介しましたが、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子関連のイベントに参加します。他にもやはり光太郎と交流のあった詩人・高祖保の関係で、調査をして参ります。我ながら自分のフットワークの軽さに感心しています(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】2月16日

昭和9年(1935)の今日、新宿で宮沢賢治を追悼する「第一回宮沢賢治友の会」が開かれ、その席上、遺品の手帳から「雨ニモマケズ」が見つかりました。
 
その場にいたのが、光太郎や草野心平。そして永瀬清子も。なかなかすごい偶然ですね。