地方紙『石巻かほく』さんに、光太郎の名。 

石巻ゆかりの本(5完) 新潮日本文学アルバム 高村光太郎

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年000)は、1931(昭和6)年8月に三陸地方を旅行している。その時、女川町にも立ち寄った。時事新報の仕事の一環だった。

 その年の10月の夕刊に、紀行文「三陸廻り」を掲載。女川について「極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」と記している。

 6年後の37(昭和12)年には、女川の地名を入れた詩「よしきり鮫」を発表。よほど港町・女川の印象が強かったようだ。

 光太郎の生涯と彫刻作品についてたどったのが、新潮日本文学アルバムシリーズの「高村光太郎」(新潮社、定価1320円・税込み)である。妻となる智恵子との出会い、美との格闘、父との確執などが豊富な写真と資料でつづられ、日本を代表する彫刻家・詩人の実像に迫る。

 巻末には山崎正和のエッセー「蕩児の憂鬱」が掲載されている。西洋に留学し、ロダンに心酔した光太郎が見つけた答えが興味深い。詳しい略年譜も参考になる。

 新潮日本文学シリーズからはほかにも「石川啄木」「志賀直哉」「宮沢賢治」と、石巻とゆかりのある人物たちが、それぞれ1冊の本になって取り上げられている。


取り上げられている『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』は、昭和59年(1984)の刊行。まだ版を重ねているようです。故・北川太一先生の編集になり、実に的確な解説と数百枚の写真で、光太郎の生涯を概観できるようになっています。刊行当時、卒論を書く際、真っ先に読んだ本の一つです。

昭和6年(1931)の三陸旅行についても紹介されており、そういうわけで『石巻かほく』さんで「石巻ゆかりの本」として取り上げて下さったのでしょう。

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ただ、記事を読むと石巻に隣接する女川の話がメインです。しかし、「三陸廻り」の紀行文は石巻から始まっていて、日和山から見た北上川の様子など、挿絵入りでレポートしています。『新潮日本文学アルバム』では石巻から旅のスタート、という記述になっていないので、そのあたりは割愛したのかもしれません。

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そういうことであれば、やはり北川太一先生による『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(二玄社 平成24年=2012)も紹介いただければいいのかな、という気もします。こちらは「三陸廻り」の全文(石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古)が、やはり詳細な解説入りで引用されています。


さて、光太郎智恵子の名は出て来ませんが、別件で。智恵子が「ほんとの空」があると言った安達太良山関連です。

まず、『福島民報』さん。 

規模縮小し山開き 登山者景色楽しむ 001安達太良山

 日本百名山の一つ、安達太良山(一、七〇〇メートル)が十七日、山開きした。新型コロナウイルス感染拡大防止に向け、山頂で予定していたミズあだたらコンテストなどのイベントが中止となるなど規模を縮小して催された。

 新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言が福島県で解除されて初の日曜日だったが、登山客は例年と比べ、大幅に少なかった。通常は山頂で先着順に登山記念ペナントを配布し、多くの登山客でにぎわうが、今回は各登山口で配った。

 二本松市などでつくる安達太良連盟が神事のみをあだたら高原スキー場ランデブーで行い、連盟会長の三保恵一二本松市長らが登山客の安全を祈願した。

 あいくにの小雨や強風、霧などの天候。登山客は時折霧の隙間から見える雄大な景色を目に焼き付けていた。


続いて『福島民友』さん。 

「安達太良山」山開き...魅力堪能 感染防止、イベントは中止

 日本百名山の一つで、二本松市などにまたがる002安達太良山(1700メートル)で17日、山開きが行われた。新型コロナウイルスの感染防止のため山頂イベントは中止となったが、福島県の緊急事態宣言が解除されて初の日曜日ということもあり、多くの登山客らが山頂を目指した。
 山頂はガスが濃く、強い風が吹く荒れ模様。例年なら、岩山に登ったり周辺で食事を取ったりする人や、山頂イベントに参加する人が多いが、この日は登り切った人たちが早々に下山していた。
 登山中は天候に恵まれ、雪が残る山肌に新緑の若葉がもえる様子や、阿武隈山系の山々が広がる大パノラマを楽しむ人の姿が見られた。登山客は、コロナ禍にも例年と変わらない姿を見せる安達太良山の魅力を堪能していた。

昨年は9,000人もの人出(当方、9,000分の1でした)があった山開きでしたが、今年は山頂イベントは中止、安全祈願祭等は登山口で実施したそうで、さびしいと言えばさびしい結果になりました。来年以降、旧に復することを願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

東京にいたころと現在とを比べてみて、わたしは今の方がほんとうだと思っています。自然を見る眼もいまの方が詳しいのですから……。

対談「清談を聴く」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

対談者は掲載紙『新岩手日報』の顧問・伊東圭一郎。智恵子は安達太良山の山の上に「ほんとの空」を見、約20年後、光太郎は花巻郊外旧太田村の山林に「ほんとう」の生活を見たというわけです。