だんだんと新着情報も戻りつつあります。富山県の地方紙『北日本新聞』さん。 ■本物以上の美を求め
大きな窓に向かい、制作中のブドウのレリーフに取り掛かる。のみの刃を入れるたびに、 波打った葉や張り詰めた実が輝きを増す。無言で木と向き合いながら、命を吹き込んでいく。
井波彫刻で培った伝統的な技術を生かし、レリーフや彩色木彫、肖像彫刻を手掛ける。
作品は全て、1本の木材から彫り出す「一木(いちぼく)造り」。木の繊維に沿ってのみの刃を入れ、艶を引き出す。確かな技術で作る写実性の高い作品は東京の三つ星フランス料理店に飾られるなど、和洋を問わず空間に彩りを添える。 目指すのは高村光雲ら明治時代の彫刻家。
武蔵野美術大在学中に作品を目にし、圧倒的な写実表現に言葉を失った。「この時代のクオリティーをよみがえらせることができたら、どこでも戦える」。逃げ場のない写実表現の世界で勝負することを決めた。
井波彫刻師の父の元に生まれ、ごく自然に彫刻の道を志した。大学卒業後は彫刻家の多田美波さん(東京)の研究所で2年間働いた。井波に戻って父の下で修業を積み、8年後に独立。より写実的な表現を追求し始めた。
ほどなくして、 富山市岩瀬地区を「芸術村」にする構想を知った。異分野で活躍する同世代の作家たちと切磋琢磨(せっさたくま)できる環境は魅力的だった。
だが、父からは反対された。「木彫刻をやるのに井波を出る必要があるのか」。名の通った井波の地を離れ、家族を抱えて生活できるのか心配され、勘当に近い形で父と別れた。
岩瀬に移り住んで12年。 順風満帆だったわけではない。写実性を追求すると制作に時間がかかり、値段は上がる。価値を認めてもらうのは難しく、しばらくは安定して注文がある天神様の制作で生計を立てた。
転機は4年ほど前、柿をモチーフにした彩色木彫を発表したことだった。明治時代の牙彫(げちょう)師、安藤緑山(ろくざん)が作る野菜や果物の彩色彫刻が昔から好きだった。
安藤のように姿形だけでなく質感まで再現するリアルな造形を突き詰めた。
「日本らしさを凝縮して世界に発信したい」。柿は「国果」とも言われる。日本の木を使い伝統の技を駆使した精巧な作品は口コミで広まった。顧客が増え、生活のめどが立ったことで、父とのわだかまりも消えた。
昨年12月、「嘉来(かき)」と題した柿の彩色木彫2点を京都の清水三年坂美術館に収めた。幕末・明治の名作がそろう同館に認められるのは長年の目標だった。念願がかない「ある基準までは来た」と思う。「でも、まだまだ行ける」 「写実」は対象を写し取ることではない。「そのものらしさを表現する中に、自分が出ている」。大胆にカーブを描く枝、黒い傷のある実、枯れてくしゃりと折れた葉-。「嘉来」は自分が美しいと感じる柿の姿を重ね合わせた集大成。実物以上の「柿」を目指した。
今は国内外から注文があり、1年以上待ってもらうことも珍しくない。それでも「 目指すところには遠い」。伝統技術をベースに自分らしい「写実」を追求し続ける。
光雲ら明治の彫刻家を範とし、「この時代のクオリティーをよみがえらせることができたら、どこでも戦える」とする意気や良し、ですね。
「具象」と「抽象」という問題を考えた時、たしかに「抽象」には逃げ場が存在します。わけのわからない表現でも、「抽象だから」の一言で済んでしまうような……。作者が意図せず偶然に生まれたような表現を、さも苦心の末に編み出した表現だ、などとする不届き者もいそうな気がします。
その点、「具象」、特に「写実」は、そういうわけにはいきません。まず実物に似せなければなりませんし、ただ似ているだけでも不可。「似せよう」という意識が厭味に残らず、実物以上に実物、という域に達しなければ、「写実」に取り組む意味がないのではないでしょうか。
光太郎も散文「彫刻十個條」で、「似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。」と書いています。これは肖像彫刻を念頭に置いての言ですが、実物写生にも当てはまるのではないでしょうか。
守旧にとどまることなく、伝統を更に発展させようとするこうした取り組み、応援していきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
令和の匠 岩崎努(いわさき・つとむ)さん(47) 木彫家
大きな窓に向かい、制作中のブドウのレリーフに取り掛かる。のみの刃を入れるたびに、 波打った葉や張り詰めた実が輝きを増す。無言で木と向き合いながら、命を吹き込んでいく。
井波彫刻で培った伝統的な技術を生かし、レリーフや彩色木彫、肖像彫刻を手掛ける。
作品は全て、1本の木材から彫り出す「一木(いちぼく)造り」。木の繊維に沿ってのみの刃を入れ、艶を引き出す。確かな技術で作る写実性の高い作品は東京の三つ星フランス料理店に飾られるなど、和洋を問わず空間に彩りを添える。 目指すのは高村光雲ら明治時代の彫刻家。
武蔵野美術大在学中に作品を目にし、圧倒的な写実表現に言葉を失った。「この時代のクオリティーをよみがえらせることができたら、どこでも戦える」。逃げ場のない写実表現の世界で勝負することを決めた。
井波彫刻師の父の元に生まれ、ごく自然に彫刻の道を志した。大学卒業後は彫刻家の多田美波さん(東京)の研究所で2年間働いた。井波に戻って父の下で修業を積み、8年後に独立。より写実的な表現を追求し始めた。
ほどなくして、 富山市岩瀬地区を「芸術村」にする構想を知った。異分野で活躍する同世代の作家たちと切磋琢磨(せっさたくま)できる環境は魅力的だった。
だが、父からは反対された。「木彫刻をやるのに井波を出る必要があるのか」。名の通った井波の地を離れ、家族を抱えて生活できるのか心配され、勘当に近い形で父と別れた。
岩瀬に移り住んで12年。 順風満帆だったわけではない。写実性を追求すると制作に時間がかかり、値段は上がる。価値を認めてもらうのは難しく、しばらくは安定して注文がある天神様の制作で生計を立てた。
転機は4年ほど前、柿をモチーフにした彩色木彫を発表したことだった。明治時代の牙彫(げちょう)師、安藤緑山(ろくざん)が作る野菜や果物の彩色彫刻が昔から好きだった。
安藤のように姿形だけでなく質感まで再現するリアルな造形を突き詰めた。
「日本らしさを凝縮して世界に発信したい」。柿は「国果」とも言われる。日本の木を使い伝統の技を駆使した精巧な作品は口コミで広まった。顧客が増え、生活のめどが立ったことで、父とのわだかまりも消えた。
昨年12月、「嘉来(かき)」と題した柿の彩色木彫2点を京都の清水三年坂美術館に収めた。幕末・明治の名作がそろう同館に認められるのは長年の目標だった。念願がかない「ある基準までは来た」と思う。「でも、まだまだ行ける」 「写実」は対象を写し取ることではない。「そのものらしさを表現する中に、自分が出ている」。大胆にカーブを描く枝、黒い傷のある実、枯れてくしゃりと折れた葉-。「嘉来」は自分が美しいと感じる柿の姿を重ね合わせた集大成。実物以上の「柿」を目指した。
今は国内外から注文があり、1年以上待ってもらうことも珍しくない。それでも「 目指すところには遠い」。伝統技術をベースに自分らしい「写実」を追求し続ける。
光雲ら明治の彫刻家を範とし、「この時代のクオリティーをよみがえらせることができたら、どこでも戦える」とする意気や良し、ですね。
「具象」と「抽象」という問題を考えた時、たしかに「抽象」には逃げ場が存在します。わけのわからない表現でも、「抽象だから」の一言で済んでしまうような……。作者が意図せず偶然に生まれたような表現を、さも苦心の末に編み出した表現だ、などとする不届き者もいそうな気がします。
その点、「具象」、特に「写実」は、そういうわけにはいきません。まず実物に似せなければなりませんし、ただ似ているだけでも不可。「似せよう」という意識が厭味に残らず、実物以上に実物、という域に達しなければ、「写実」に取り組む意味がないのではないでしょうか。
光太郎も散文「彫刻十個條」で、「似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。」と書いています。これは肖像彫刻を念頭に置いての言ですが、実物写生にも当てはまるのではないでしょうか。
守旧にとどまることなく、伝統を更に発展させようとするこうした取り組み、応援していきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
木竹諧和 短句揮毫 昭和23年(1948) 光太郎66歳
花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に、花巻病院長・佐藤隆房や村人たちの厚意で、それまで無かった風呂場が作られました。風呂は鉄砲風呂と呼ばれるタイプ。水の中に金属製の筒が入っており、その中で薪を燃やすことで湯を沸かします。
その風呂桶を造ったのが花巻一の桶造り職人、大橋喜助。光太郎はお礼にと、この句を揮毫した書を贈りました。「諧和」は「やわらいで親しみあうこと」の意。木や竹などの材料を「諧和」させる見事な匠の技へのオマージュですね。
しかし、せっかく造ってもらった風呂でしたが、薪を大量に消費せねばならず、結局、あまり使われませんでした。
左の画像はその現物です。竹は箍(たが)の部分に使われています。
その風呂桶を造ったのが花巻一の桶造り職人、大橋喜助。光太郎はお礼にと、この句を揮毫した書を贈りました。「諧和」は「やわらいで親しみあうこと」の意。木や竹などの材料を「諧和」させる見事な匠の技へのオマージュですね。
しかし、せっかく造ってもらった風呂でしたが、薪を大量に消費せねばならず、結局、あまり使われませんでした。
左の画像はその現物です。竹は箍(たが)の部分に使われています。