最近手に入れたものシリーズで、一昨日ご紹介した荒井とみよ氏著『詩人たちの敗戦』同様、少し古い書籍です。 平成8年(1996)10月1日 浅尾丁策著 芸術新聞社 定価3,200円+税
朝井閑右衛門 浜口陽三 木内克 原精一…… 昭和の美術界を闊歩した芸術家たちの素顔をつづるよき時代のものがたり
目次
占領下の画家たち
悪夢の日々からの解放 占領下の画家たち “プール・ヴー”美術研究所
カルチェ・ヴァル会誕生 モデル紹介業のはじまり 田村泰次郎「肉体の門」の頃
浅草界隈人間模様 フランスに行けなかった浜口陽三さんの狸公
谷中の畸人、上口愚郎さん
思い出の人と絵画
様相転ずる上野・下谷界隈 ゴーギャン、幻のブルターニュ風景 思い出の人々と絵画
走馬燈 ワイセツ今昔物語 旧都美術館周辺のこと 北荘画廊の成功
逸品・珍品あれこれ 旅の僧の淡彩風景 石膏像販売はじめる
仙人のごとき画人・朝井閑右衛門さん 東山魁夷さんのクレヨン画
中村研一先生の水墨屏風 インド古剣と岩田藤七さん 裸婦をめぐる風景
高村光太郎先生「乙女の像」のモデル 谷中五重塔心中綺譚 第一回形象展開催
五大家合作枕屏風出来 小絲先生のインスタントホワイト
金四郎、パリを行く
初のヨーロッパ旅行 イタリア紀行 ヨーロッパ古物商めぐり 金四郎、個展をひらく
パレット座迷舞台あく 鶴岡政男さん逝く
拂雲堂日記抄(一九七七年春から八三年春)――別れと出会いの日々
あとがき
本書は、美術雑誌『アート・トップ』に連載されたものの単行本化で、著者の浅尾丁策氏は、明治40年(1907)、東京下谷の生まれ。戦前に画材店「浅尾拂雲堂」を開業、戦後は絵画修復、額縁制作、さらに、昭和24年(1949)、「プール・ヴーモデル紹介所」を設立しました。平成12年(2000)に歿しています。
その「プール・ヴーモデル紹介所」(現在も存続しています)に所属していた藤井照子が、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のモデルを務めました。当時19歳だったということです。
藤井照子詩集『石花采(てんぐさ)』が刊行されました。
「藤井照子」というと、詩集『石花采(てんぐさ)』(昭和16年=1941)に光太郎が序文を書いてやった女流詩人が「藤井照子」ですが、同姓同名の全くの別人です。ところが筑摩書房『高村光太郎全集』(増補版)別巻の人名索引では二人の「藤井照子」が混同されています。
そこで、「高村光太郎先生「乙女の像」のモデル」という章が設けられています。ただ、章のタイトルとは裏腹に、その内容は1ページだけでした。残りの部分は別件です。
これだけの文章ですが、詳しい経歴等不明だった藤井照子に関し、いろいろとわかりました。三姉妹でモデル業を務めていたというのは存じませんでしたし、妹さんが荻窪で喫茶店、というのももちろん初耳でした。
ただ、ここにも詳細は語られていないのですが、結婚後の照子自身についてはやはり不明です。北海道に旅して相手を見つけたとありますが、道内に嫁いだのか、相手も旅行者で、道外の人だったのかなど。数年前、十和田市で講演をさせていただいた折、参加者の方から「品川の方の青果店に嫁に行ったらしい」というお話を伺いましたが、それも真偽不明です。
照子、または姉妹、ご存命であればお会いしたいと思っているので、情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
ところで、上記文章、光太郎自身が浅尾氏の元を訪ねたように書かれていますが、日記等と付き合わせても、そうした記述が無く、浅尾氏の勘違いではないかと思われます。像の制作中に光太郎が倒れた場合、代わりの制作者として指名されていた彫刻家・菊地一雄の斡旋だったと聞いた記憶があります。当方、かつて故・北川太一先生のお宅で、光太郎遺品中の、照子のプロモーション用の写真(ヌードでした)を拝見したことがあります。
ただ、日記といえど、すべて真実が書かれているとは限りませんし、このあたりも調べようと思いつつ、後回しになっています。
さて、『昭和の若き芸術家たち』、絶版ですがAmazonさん等では入手できます。是非お買い求めを。ちなみに当方、昨年拝見した演劇「岸井戯曲を上演するinTokyo#1「かり」」に出演されていた辻村優子さんという方にこの書籍を教えていただき、購入した次第です。
【折々のことば・光太郎】
昭和の若き芸術家たち 続金四郎三代記[戦後篇]
朝井閑右衛門 浜口陽三 木内克 原精一…… 昭和の美術界を闊歩した芸術家たちの素顔をつづるよき時代のものがたり
目次
占領下の画家たち
悪夢の日々からの解放 占領下の画家たち “プール・ヴー”美術研究所
カルチェ・ヴァル会誕生 モデル紹介業のはじまり 田村泰次郎「肉体の門」の頃
浅草界隈人間模様 フランスに行けなかった浜口陽三さんの狸公
谷中の畸人、上口愚郎さん
思い出の人と絵画
様相転ずる上野・下谷界隈 ゴーギャン、幻のブルターニュ風景 思い出の人々と絵画
走馬燈 ワイセツ今昔物語 旧都美術館周辺のこと 北荘画廊の成功
逸品・珍品あれこれ 旅の僧の淡彩風景 石膏像販売はじめる
仙人のごとき画人・朝井閑右衛門さん 東山魁夷さんのクレヨン画
中村研一先生の水墨屏風 インド古剣と岩田藤七さん 裸婦をめぐる風景
高村光太郎先生「乙女の像」のモデル 谷中五重塔心中綺譚 第一回形象展開催
五大家合作枕屏風出来 小絲先生のインスタントホワイト
金四郎、パリを行く
初のヨーロッパ旅行 イタリア紀行 ヨーロッパ古物商めぐり 金四郎、個展をひらく
パレット座迷舞台あく 鶴岡政男さん逝く
拂雲堂日記抄(一九七七年春から八三年春)――別れと出会いの日々
あとがき
本書は、美術雑誌『アート・トップ』に連載されたものの単行本化で、著者の浅尾丁策氏は、明治40年(1907)、東京下谷の生まれ。戦前に画材店「浅尾拂雲堂」を開業、戦後は絵画修復、額縁制作、さらに、昭和24年(1949)、「プール・ヴーモデル紹介所」を設立しました。平成12年(2000)に歿しています。
その「プール・ヴーモデル紹介所」(現在も存続しています)に所属していた藤井照子が、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のモデルを務めました。当時19歳だったということです。
藤井照子詩集『石花采(てんぐさ)』が刊行されました。
「藤井照子」というと、詩集『石花采(てんぐさ)』(昭和16年=1941)に光太郎が序文を書いてやった女流詩人が「藤井照子」ですが、同姓同名の全くの別人です。ところが筑摩書房『高村光太郎全集』(増補版)別巻の人名索引では二人の「藤井照子」が混同されています。
そこで、「高村光太郎先生「乙女の像」のモデル」という章が設けられています。ただ、章のタイトルとは裏腹に、その内容は1ページだけでした。残りの部分は別件です。
これだけの文章ですが、詳しい経歴等不明だった藤井照子に関し、いろいろとわかりました。三姉妹でモデル業を務めていたというのは存じませんでしたし、妹さんが荻窪で喫茶店、というのももちろん初耳でした。
ただ、ここにも詳細は語られていないのですが、結婚後の照子自身についてはやはり不明です。北海道に旅して相手を見つけたとありますが、道内に嫁いだのか、相手も旅行者で、道外の人だったのかなど。数年前、十和田市で講演をさせていただいた折、参加者の方から「品川の方の青果店に嫁に行ったらしい」というお話を伺いましたが、それも真偽不明です。
照子、または姉妹、ご存命であればお会いしたいと思っているので、情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
ところで、上記文章、光太郎自身が浅尾氏の元を訪ねたように書かれていますが、日記等と付き合わせても、そうした記述が無く、浅尾氏の勘違いではないかと思われます。像の制作中に光太郎が倒れた場合、代わりの制作者として指名されていた彫刻家・菊地一雄の斡旋だったと聞いた記憶があります。当方、かつて故・北川太一先生のお宅で、光太郎遺品中の、照子のプロモーション用の写真(ヌードでした)を拝見したことがあります。
ただ、日記といえど、すべて真実が書かれているとは限りませんし、このあたりも調べようと思いつつ、後回しになっています。
さて、『昭和の若き芸術家たち』、絶版ですがAmazonさん等では入手できます。是非お買い求めを。ちなみに当方、昨年拝見した演劇「岸井戯曲を上演するinTokyo#1「かり」」に出演されていた辻村優子さんという方にこの書籍を教えていただき、購入した次第です。
【折々のことば・光太郎】