最近手に入れたものシリーズです。
昭和26年(1951)10月30日、花巻から送られた葉書で、『高村光太郎全集』に漏れていたものです。例によって味わい深い筆跡です。
同便速達第四種で原稿お送りします、
一日で書けるものでありながらその一日が中々得られない次第で遅れました。
十月卅日
宛先は、「平凡社編集部 関博」。
当日の日記です。
十月三十日 火
くもり、晴れてくる、 花巻行、 十二時の電車でゆく、平凡社へ電報、郵便局でいろいろ発送、しんばしでうな丼、三時半の電車でかへる、(略)
「原稿」とあるのは、この年11月30日発行の『世界美術全集 第25巻 日本Ⅳ』のためのものです。そちらは20年ほど前に現物を手に入れました。
この中で、光太郎は図版の解説文を4本執筆しています。
まず、長沼守敬の「老夫」(明治33年=1900)。
続いて、父・光雲の「老猿」(明治26年=1893)。
親友、荻原守衛の「銀盤(柳敬助像)」(明治43年=1910)。
同じく、「北條虎吉肖像」(明治42年=1909)。
『世界美術全集』への同様の寄稿は前年から始まっており、他の巻ではロダン、ミケランジェロ、江戸期の彫刻、エジプト彫刻について執筆しています。
「物書きあるある」として、当方もそうなのですが、自分で書きたくて勝手に書く原稿は、思い立ったらすぐに書くことが多く、それに対し、依頼されて書くものは手を付けるまでに意外と時間を要します。書き始めてさえしまえばけっこう早く書き上がるのですが、書き始めるまでが長いのです。あるいは逆に、そうなることが分かっているので、頼まれたら即書いてしまうとか。物書き全員がそうだというわけではないのでしょうが。
まぁ、この年の光太郎は結核性の肋間神経痛がひどく、ペンを持つのも苦痛で、農作業は思い切って放棄した状態だったので、当方のような単なる怠惰とは違うとも思いますが(笑)。
光太郎、この原稿を送り、電報を打ち、さらに当方が入手した葉書(日記に「いろいろ発送」とあるうちの一つということですね)も送ったわけで、念入りです。
日記に出て来る「しんばし」は、花巻市役所近くに今も健在の食堂です。建物は建て替わっているようです。
「電車」は廃線となった花巻電鉄です。
当方、美術系古書専門店さんの目録から註文し、入手しましたが、他店の目録にも同じ関博宛の葉書(これも『高村光太郎全集』未収録)が出ました。そちらも註文したのですが、抽選に負けたようで、駄目でした。また、1月には『日本古書通信』さん巻末に載っている古書店さんの新入荷品目録に、誰宛か、いつのものかは不明でしたが、やはり「高村光太郎葉書」。これが破格の値段でたったの5,000円。「一桁間違ったんじゃないのか」と思いつつ註文しましたが、こちらも抽選に負けました。
当方、基本的に『高村光太郎全集』未収録のもののみ購入しています。それらを集成して「光太郎遺珠」として世に出しているわけです(5,000円の葉書はもしかすると既知のものだったかも知れませんが、「5,000円ならそれでもいいや」と思って註文しました)。
比較的長命だった上に、筆まめだった光太郎。上記葉書は『高村光太郎全集』からの通しナンバーで3,457通目です(諸般の事情により、通しナンバー外のものが49通ありますが)。しかし、まだまだ書簡類は各地に眠っていることと思われます。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
【折々のことば・光太郎】
昭和26年(1951)10月30日、花巻から送られた葉書で、『高村光太郎全集』に漏れていたものです。例によって味わい深い筆跡です。
同便速達第四種で原稿お送りします、
一日で書けるものでありながらその一日が中々得られない次第で遅れました。
十月卅日
宛先は、「平凡社編集部 関博」。
当日の日記です。
十月三十日 火
くもり、晴れてくる、 花巻行、 十二時の電車でゆく、平凡社へ電報、郵便局でいろいろ発送、しんばしでうな丼、三時半の電車でかへる、(略)
「原稿」とあるのは、この年11月30日発行の『世界美術全集 第25巻 日本Ⅳ』のためのものです。そちらは20年ほど前に現物を手に入れました。
この中で、光太郎は図版の解説文を4本執筆しています。
まず、長沼守敬の「老夫」(明治33年=1900)。
続いて、父・光雲の「老猿」(明治26年=1893)。
親友、荻原守衛の「銀盤(柳敬助像)」(明治43年=1910)。
同じく、「北條虎吉肖像」(明治42年=1909)。
『世界美術全集』への同様の寄稿は前年から始まっており、他の巻ではロダン、ミケランジェロ、江戸期の彫刻、エジプト彫刻について執筆しています。
「物書きあるある」として、当方もそうなのですが、自分で書きたくて勝手に書く原稿は、思い立ったらすぐに書くことが多く、それに対し、依頼されて書くものは手を付けるまでに意外と時間を要します。書き始めてさえしまえばけっこう早く書き上がるのですが、書き始めるまでが長いのです。あるいは逆に、そうなることが分かっているので、頼まれたら即書いてしまうとか。物書き全員がそうだというわけではないのでしょうが。
まぁ、この年の光太郎は結核性の肋間神経痛がひどく、ペンを持つのも苦痛で、農作業は思い切って放棄した状態だったので、当方のような単なる怠惰とは違うとも思いますが(笑)。
光太郎、この原稿を送り、電報を打ち、さらに当方が入手した葉書(日記に「いろいろ発送」とあるうちの一つということですね)も送ったわけで、念入りです。
日記に出て来る「しんばし」は、花巻市役所近くに今も健在の食堂です。建物は建て替わっているようです。
「電車」は廃線となった花巻電鉄です。
当方、美術系古書専門店さんの目録から註文し、入手しましたが、他店の目録にも同じ関博宛の葉書(これも『高村光太郎全集』未収録)が出ました。そちらも註文したのですが、抽選に負けたようで、駄目でした。また、1月には『日本古書通信』さん巻末に載っている古書店さんの新入荷品目録に、誰宛か、いつのものかは不明でしたが、やはり「高村光太郎葉書」。これが破格の値段でたったの5,000円。「一桁間違ったんじゃないのか」と思いつつ註文しましたが、こちらも抽選に負けました。
当方、基本的に『高村光太郎全集』未収録のもののみ購入しています。それらを集成して「光太郎遺珠」として世に出しているわけです(5,000円の葉書はもしかすると既知のものだったかも知れませんが、「5,000円ならそれでもいいや」と思って註文しました)。
比較的長命だった上に、筆まめだった光太郎。上記葉書は『高村光太郎全集』からの通しナンバーで3,457通目です(諸般の事情により、通しナンバー外のものが49通ありますが)。しかし、まだまだ書簡類は各地に眠っていることと思われます。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
【折々のことば・光太郎】
ひかりをつつむ 短句揮毫 戦後期?
書簡類と同じように、こうした短句を揮毫した色紙類なども、ぽつりぽつりと市場に出て来たり、「こういうものを持っている」という情報のご提供を受けたりします。既知の詩や散文などの一節を抜き書きしたものでない、オリジナルのものであれば(その見極めが難しいのですが、これについてはまた改めて書きます)、これも「光太郎遺珠」収録対象です。こちらも情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。