昨秋、八重洲ブックセンターさんで手に入れた書籍です。最新刊、というわけではないのでご紹介していませんでした。
敗戦の中でことばはどのように立ち上がったか。与謝野晶子、高村光太郎、三好達治、横光利一、臼井吉見、高見順、宮本百合子の戦争敗戦の文学について考察する。同人誌『水路』掲載を書籍化。
目次
「歌は歌に候」――与謝野晶子
後日ノート――晶子の手紙
「わが詩をよみて人死に就けり」――高村光太郎
後日ノート――『智恵子抄』をめぐる物語
「なつかしい日本」――三好達治
「夜汽車が木枯の中を」――横光利一『夜の靴』
「常念岳を見よ」――臼井吉見『安曇野』
「私の日記は腐ってもいい」――高見順『敗戦日記』
「歴史はその巨大なページを音なくめくった」――宮本百合子『播州平野』
後日ノート――百合子の手紙
あとがき
4年前の刊行で、光太郎について2章も割いている書籍に気づかなかったというのも情けない話ですが、言い訳させていただけるなら、版元の編集工房ノアさん、大阪で「社主の涸沢純平さんが奥様とお二人でやっているミニ出版社。関西で活動を行っている作家、詩人にとって方舟のような存在。活動を開始して35年を超えるが、いまだに家内制出版を守る。」(はてなキーワードより)だそうで、自前のHPもなく、大がかりな宣伝もしていないようでして……。
閑話休題。著者の荒井とみよさんという方、昭和14年(1939)のお生まれで、元大谷大学さんの教授だそうです。そういうわけで、本書は分類すれば評論なのでしょうが、一般的な評論というより、エッセイの要素も強い感じがしました。タイトルが示す通り、文学者たち(「詩人」というのは広義の意味ですね)が、どのように戦争に向き合ってきたかというところに主眼が置かれ、なかなか鋭い着眼も随所に見られます。
光太郎に関しては、『智恵子抄』所収の詩篇と、大量に書き殴られた愚にもつかない翼賛詩が平行して書かれていた矛盾、そして戦後になってそれをどう総括したのか、的な進め方です。戦時中に関しては、柿本人麻呂になぞらえていらっしゃり、「なるほど」と思わせられました。戦後に関しては、書簡や日記、さらに花巻病院長・佐藤隆房による『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962)に紹介されたエピソードなどをひきつつ、考察されています。
章題に使われている「わが詩をよみて人死に就けり」は、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の構想段階で書かれ、自らボツにした作品。光太郎の戦争観を考える上で、多くの論者が参考にしているものです。
わが詩をよみて人死に就けり
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
以前にも書きましたが、「必死の時」は、昭和15年(1940)の詩。
必死の時
必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
人は死をいそがねど
死は前方から迫る。
死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絶体絶命にして
そこに生死を絶つ。
必死は狡知の醜をふみにじつて
素朴にして当然なる大道をひらく。
天体は必死の理によって分秒をたがえず、
窓前の茶の花は葉かげに白く、
卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
安きを偸むものにまどひあり、
死を免れんとするものに虚勢あり。
一切を必死に委(ゐ)するもの、
一切を現有に於て見ざるもの、
一歩は一歩をすてて
つひに無窮にいたるもの、
かくの如きもの大なり。
生れて必死の世にあふはよきかな、
人その鍛錬によつて死に勝ち、
人その極限の日常によつてまことに生く。
未練を捨てよ、
おもはくを恥ぢよ、
皮肉と駄々をやめよ。
そはすべて閑日月なり。
われら現実の歴史に呼吸するもの、
今必死のときにあひて、
生死の区区たる我慾に生きんや。
心空しきもの満ち、
思い専らなるもの精緻なり。
必死の境に美はあまねく、
烈々として芳しきもの、
しずもりて光をたたふるもの
その境にただよふ。
ああ必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋々としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
昭和15年(1940)といえば、太平洋戦争はまだ始まっていません。そこで、「わが詩をよみて人死に就けり」で、爆弾が落ちる中、この「必死の時」を書いたというのはおかしいじゃないかと、エラいセンセイが指摘しています。「光太郎はこの詩を自分でいつ作ったのか忘れている、けしからん」と。こういうのを浅い読み方、といいます。光太郎は「「必死の時」を必死になつて私は書いた。」と書いていますが「「必死の時」を必死になつて私は作つた。」とは書いていません。
詩の右に載せた画像は、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、政治学者・富田容甫に宛てた昭和18年(1943)の書簡ですが、「必死の時」の一節が書かれています。「「必死の時」を必死になつて私は書いた。」は、こういうことを指しているのだと考えれば、何らの不思議もありません。
残念ながら、荒井とみよさんも「自分史として正確でない」としているのは、この点だと思われます。また、他にも事実に反する記述(残っている光太郎日記は昭和21年(1946)以降、としていますが、昭和20年(1945)のもの、さらに言うなら断片的には明治期のものも残っています)があったり、ある市民講座での参加者の頓珍漢な発言(智恵子が入院していたゼームス坂病院で格子が嵌められた部屋に閉じこめた的な)を訂正せず(ゼームス坂病院は当時としては画期的な開放病棟が採用されていました)に引用したりと、いろいろ問題があるのですが、そういう点を差し引いても、なかなかの好著だとは思いました。
光太郎以外の章、与謝野晶子はじめ、取り上げられている人物すべて、光太郎と交流のあった面々ですので、興味深く拝読しました。臼井吉見(光太郎の『暗愚小伝』掲載時の筑摩書房『展望』編集者)の章では、光太郎に触れられています。
Amazonさん等で、入手可能。ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
平成28年(2016)4月1日 荒井とみよ著 編集工房ノア刊 定価2,200円+税
敗戦の中でことばはどのように立ち上がったか。与謝野晶子、高村光太郎、三好達治、横光利一、臼井吉見、高見順、宮本百合子の戦争敗戦の文学について考察する。同人誌『水路』掲載を書籍化。
目次
「歌は歌に候」――与謝野晶子
後日ノート――晶子の手紙
「わが詩をよみて人死に就けり」――高村光太郎
後日ノート――『智恵子抄』をめぐる物語
「なつかしい日本」――三好達治
「夜汽車が木枯の中を」――横光利一『夜の靴』
「常念岳を見よ」――臼井吉見『安曇野』
「私の日記は腐ってもいい」――高見順『敗戦日記』
「歴史はその巨大なページを音なくめくった」――宮本百合子『播州平野』
後日ノート――百合子の手紙
あとがき
4年前の刊行で、光太郎について2章も割いている書籍に気づかなかったというのも情けない話ですが、言い訳させていただけるなら、版元の編集工房ノアさん、大阪で「社主の涸沢純平さんが奥様とお二人でやっているミニ出版社。関西で活動を行っている作家、詩人にとって方舟のような存在。活動を開始して35年を超えるが、いまだに家内制出版を守る。」(はてなキーワードより)だそうで、自前のHPもなく、大がかりな宣伝もしていないようでして……。
閑話休題。著者の荒井とみよさんという方、昭和14年(1939)のお生まれで、元大谷大学さんの教授だそうです。そういうわけで、本書は分類すれば評論なのでしょうが、一般的な評論というより、エッセイの要素も強い感じがしました。タイトルが示す通り、文学者たち(「詩人」というのは広義の意味ですね)が、どのように戦争に向き合ってきたかというところに主眼が置かれ、なかなか鋭い着眼も随所に見られます。
光太郎に関しては、『智恵子抄』所収の詩篇と、大量に書き殴られた愚にもつかない翼賛詩が平行して書かれていた矛盾、そして戦後になってそれをどう総括したのか、的な進め方です。戦時中に関しては、柿本人麻呂になぞらえていらっしゃり、「なるほど」と思わせられました。戦後に関しては、書簡や日記、さらに花巻病院長・佐藤隆房による『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962)に紹介されたエピソードなどをひきつつ、考察されています。
章題に使われている「わが詩をよみて人死に就けり」は、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の構想段階で書かれ、自らボツにした作品。光太郎の戦争観を考える上で、多くの論者が参考にしているものです。
わが詩をよみて人死に就けり
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
以前にも書きましたが、「必死の時」は、昭和15年(1940)の詩。
必死の時
必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
人は死をいそがねど
死は前方から迫る。
死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絶体絶命にして
そこに生死を絶つ。
必死は狡知の醜をふみにじつて
素朴にして当然なる大道をひらく。
天体は必死の理によって分秒をたがえず、
窓前の茶の花は葉かげに白く、
卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
安きを偸むものにまどひあり、
死を免れんとするものに虚勢あり。
一切を必死に委(ゐ)するもの、
一切を現有に於て見ざるもの、
一歩は一歩をすてて
つひに無窮にいたるもの、
かくの如きもの大なり。
生れて必死の世にあふはよきかな、
人その鍛錬によつて死に勝ち、
人その極限の日常によつてまことに生く。
未練を捨てよ、
おもはくを恥ぢよ、
皮肉と駄々をやめよ。
そはすべて閑日月なり。
われら現実の歴史に呼吸するもの、
今必死のときにあひて、
生死の区区たる我慾に生きんや。
心空しきもの満ち、
思い専らなるもの精緻なり。
必死の境に美はあまねく、
烈々として芳しきもの、
しずもりて光をたたふるもの
その境にただよふ。
ああ必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋々としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
昭和15年(1940)といえば、太平洋戦争はまだ始まっていません。そこで、「わが詩をよみて人死に就けり」で、爆弾が落ちる中、この「必死の時」を書いたというのはおかしいじゃないかと、エラいセンセイが指摘しています。「光太郎はこの詩を自分でいつ作ったのか忘れている、けしからん」と。こういうのを浅い読み方、といいます。光太郎は「「必死の時」を必死になつて私は書いた。」と書いていますが「「必死の時」を必死になつて私は作つた。」とは書いていません。
詩の右に載せた画像は、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、政治学者・富田容甫に宛てた昭和18年(1943)の書簡ですが、「必死の時」の一節が書かれています。「「必死の時」を必死になつて私は書いた。」は、こういうことを指しているのだと考えれば、何らの不思議もありません。
残念ながら、荒井とみよさんも「自分史として正確でない」としているのは、この点だと思われます。また、他にも事実に反する記述(残っている光太郎日記は昭和21年(1946)以降、としていますが、昭和20年(1945)のもの、さらに言うなら断片的には明治期のものも残っています)があったり、ある市民講座での参加者の頓珍漢な発言(智恵子が入院していたゼームス坂病院で格子が嵌められた部屋に閉じこめた的な)を訂正せず(ゼームス坂病院は当時としては画期的な開放病棟が採用されていました)に引用したりと、いろいろ問題があるのですが、そういう点を差し引いても、なかなかの好著だとは思いました。
光太郎以外の章、与謝野晶子はじめ、取り上げられている人物すべて、光太郎と交流のあった面々ですので、興味深く拝読しました。臼井吉見(光太郎の『暗愚小伝』掲載時の筑摩書房『展望』編集者)の章では、光太郎に触れられています。
Amazonさん等で、入手可能。ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】