仕方がないことではありますが、これだけイベント等の自粛やら延期やら中止やらが続くと、このブログで取りあげるネタに困ります。
まず、紹介するべきイベントが行われないのでその紹介が書けませんし、それからイベントに行けばレポートが書け、新聞・テレビなどが取り上げて下さればそれも使えるのですが、それもできません。
そこで苦肉の策としまして、「古いもの」を紹介します。
このブログでは、光太郎智恵子、光雲らに関する「新着情報」を中心に紹介しています。例えば新刊書籍、雑誌類は紹介して、版元等のリンクを貼っておけば、ブログを読んで下さった皆さんもお買い求め頂けるわけで。
ところが「古いもの」ですと、入手困難。そういうものを紹介するのも何だかなぁ、と思い、ほとんど取り上げてきませんでした。
しかし、冒頭に書いた通りのネタ不足。背に腹は代えられません(笑)。そこで、しつこいようですが「苦肉の策」。ネタのない時には最近入手した「古いもの」をご紹介します。
ただ、今回は「古くて新しいもの」というべきでしょうか。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』、さらにその補遺として当方がまとめ続けている「光太郎遺珠」に漏れていた、言わば新発見です。しかも、なかなかに驚くべき内容で。
光太郎ブロンズ彫刻の代表作の一つ、「手」(左下の画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです)に関してです。
右上は、つい先頃入手した大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』(東京市本郷区根津宮永町十八番地 芸術公論社 編輯兼発行人石川勝治)第3巻第1号です。
ここに、「手紙」と題する光太郎の文章が載っていました。以下に全文を転記します。
手紙
口村君。
僕の近作の写真を送れといふ君の依頼によつて、素人が撮影したので甚だ不鮮明なものだが、「手」の習作を一枚送ります。此は今年の夏作つたものです。大きさは自然大の一倍半位。鋳金で黒い色に仕上つてゐます。甚だ貧しいものではあるけれども、しかしいい加減な作でないだけの自信はあります。此は自分の左の手ですが、手を作りながらいろんな事を感じました。
自分の手をじつと見てゐると自分の手が実におそろしい程不思議に思はれました。何だか自分の手でないやうな気がしました。何か大きなものの見えない手が不意に形を現はしたかのやうに感じました。さうして自分の手の美しいのにひどく打たれました。私は自分の手を仮に仏像にある「施無畏」の印相に似た形にしてみました。私は又自分の手の威厳に打たれました。ふだん自分の手にこんな霊光のある事を感じてゐなかつた事に気付きました。私は此をどうかして自分に出来るだけの力で自分の能力一ぱいに再現したいといふ気に駆られたいのです。
人間の手といふ者は何といふ無駄の無い、必然な者でせう。手のつけ根から五本の指の先に至るまで全く連鎖して寸分の隙もありません。五本の指を見ても人さし指のまつすぐに余り凸凹無しに直立してゐる力や、中指の根強く岩畳なのや、薬指の思慮深く沈黙したやうなのや、小指の愛らしく又敏捷な趣や、それから其四本に対して唯一本で向つてゐる親指の厚ぼつたい、重みのある気魄は全く考へさせられます。手の甲や掌の肉の起伏、骨の隠顕の微妙さも驚くばかりです。そして其の全体を支配する生きものの熱は殆ど神秘を感じさせます。
こんな事を考へてゐると、自分の習作の「手」が自然の前にあつて如何にも貧しいのを恥かしく思はれてなりません。しかし私の身上は身上です。今日此だけしか出来ないのを無暗と悲しみはしません。今日此だけなら明日は此以上に出来ます。どこまでも出ぬけます。そして出来る限り此の無尽蔵の自然の美を汲みませう。此の手を作りながら私は奈良にある仏達の手の二三を考へ出した事がありますが、日本にもあれ程の真と美とを把握した作家があつたのだといふ事を非常に力強く思ひました。そして静かに、世間の根帯無き動揺の外に立つて、たとひ貧乏に追はれても、一足づゝ確かに歩むより外自分の行く道は無いのを感じました。私の行く道は寂しいけれども、清らかで、恍惚と栄光とに満ちてゐます。濁流の渦巻くやうな文展芸術の波は、私の足の先をも洗ひません。汚せません。此点君は私を喜んで下さる事と信じます。いづれ又後便で。
「口」は「くち」です。四角やカタカナの「ロ」ではありません。したがって、「口村君」は「くちむらくん」でしょう。珍しい苗字のように思われますが、地方によってほそうでもないのでしょうか? 同誌に翻訳「ダビデ王の一世」、随筆「予が創造芸術」の二本の記事を執筆している「口村龍皚」と思われますが、詳しい経歴等不明です。『高村光太郎全集』第21巻所収の山川丙三郎宛書簡二三九〇に、翻訳家・口村佶郎の名が記されていて、あるいは同一人物かと思われますが、不明です。情報をお持ちの方、このブログサイトコメント欄等よりご教示いただければ幸いです。
追記 明治45年(1912)3月、精神学院発行の雑誌『心の友』第8巻第3号に口村の文章が掲載されており、目次では「佶郎」、本文は「龍皚」となっており、同一人物であることが判明しました。
さて、どうもその口村龍皚に送った手紙そのまま、または多少の換骨奪胎があるかも知れませんが、それにしても大幅に書き換えられていることはないと思われます。
実は彫刻「手」については、光太郎本人が書き残したものは多くありません。そのため、これまで、正確な制作年代すら不明でした。さまざまな状況証拠から、大正7年(1918)だろうと推測は出来ていましたが、確証がありませんでした。そこで、当方も関わった、千葉市美術館さん他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」(平成25年=2013)の図録やキャプションでは、「1918 大正7年頃」となっていました。
それが、この文章により「今年の夏」とあるので、掲載誌の発行された大正8年(1919)1月から逆算し、やはり大正7年(1918)だったことがほぼ断定できることになりました。さすがに一年以上前の手紙を一年以上経ってから掲載するということもあまり考えにくいと思います。そうした例がないわけではありませんが、光太郎の「近作」を紹介するという趣旨での掲載のようですので、おそらく間違いないでしょう。
既知の光太郎の文章等で、「手」に触れていたのは以下くらいのものでした。
今わたくしの部屋に観世音の手が置いてある。施無畏の印相といへばどんなむづかしい、いかめしい印相かと思ふと、それはただ平らかに静かに前の方へ開いた手に過ぎない。平らに開いた手が施無畏である為にはどんな体内の生きた尺度が必要なのか。
(昭和9年=1934 散文「黄瀛詩集「瑞枝」序」より)
あの手は二つ作つたが僕のはロダンの習作と違つて制作なんだ。施無畏印相の手の形を逆にした構想で、東洋的な技法で近代的な感覚を表わした。あの人さし指は真すぐ天をつらぬいているんだ。
(昭和26年=1951 談話筆記「高村光太郎の生活」より)
雅郎 先生の「手」の彫刻はいつ頃ですか。
先生 よほど前です。
太田 先生御自身の手ですか。
先生 そうです。
(昭和27年=1952 座談会筆録「高村先生を囲んで」より)
いずれも制作からかなり年月が経ってのものでした。また、戦後の日記や書簡で、新たに「手」を鋳造することになって、その関係で事務的に触れていますが、それは割愛します。
で、今回見つけた「手紙」は、もろにリアルタイム。制作当時、光太郎がどのように考えていたのか、かなりはっきりしました。今後、「手」について論考等を書かれる方は、これを参考にしていただきたく存じます。というか、これを参考にしなければ「手」を語れませんね。
ただ、気になる点もいくつか。まず「習作」と書いていること。昭和26年(1951)には「ロダンの習作と違つて制作なんだ」と語っているのに、制作当時は「習作」と位置づけていたのか、と。しかし、ブロンズに鋳造しているということは、全くの「習作」というわけでもなさそうですし、「これから先、こういったものをどんどん作るぞ」という意味での「習作」なのかもしれません。実際、おそらくこの後、「腕」、「ピアノを弾く手」、「足」(現存確認できず)など人体パーツをモチーフとした塑造彫刻を制作しています。
ちなみに繰り返し出て来る「施無畏」は、観音像などの右手によく使われる形で、「何も畏(おそ)れることは無い」と諭す印形だそうです。観音像ではありませんが、奈良の大仏様の右手もこの形です。通常、右手で作る印形を左手として作ったので、上記「高村光太郎の生活」では「逆にした構想」と語っているのだと思われます。
ところで、『芸術公論』に載った「手」の写真がこちら。裏焼きなどのミスがないとすれば、小指側から撮った写真のようです。
元々が光太郎の書いた通り「甚だ不鮮明」だった上に、当時の印刷技術ではこの程度が限界だったのでしょう。もう少し鮮明であれば良かったのですが、しかし、これまた現存が確認できている「手」の最古の写真、ということになるわけで、貴重なものではあります。
この写真についても気になる点が。台座の木彫部分は取り付けられているのかいないのか、何とも不明です。手首のあたりに微妙に写っているようにも見えますが。そのためなのでしょうか、通常、最初の髙村規氏撮影の画像のように立っているべき手が横になっています。このあたり、おそらくこの記事自体に光太郎の検閲は入っていないために起こったことなのかもしれません。
いずれにせよ、なかなかすごい文章が見つかったものだと思います。こういう宝探し的要素があるので、中々やめられません(笑)。
追記 下記もご高覧下さい。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-①。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-②。
【折々のことば・光太郎】鎖国政策を望むやうな日本論には私は賛成出来ませんが(私は国民性をもつと強いものに思つてゐます)日本人としての本気な生活を建設することについては同志の一人です。最も熱心な。
雑纂「「胞珠帯」より」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳
「日本人としての本気な生活を建設すること」。新型コロナ禍の中、こうした点が、今、われわれに問われているような気がします。