東京駒場の日本近代文学館さん。「所蔵資料紹介の機会を増やすため、「日本近代文学館年誌―資料探索」という紀要を年に一冊刊行しております。」とのことで、館蔵資料の紹介、各氏論考、エッセイなどが掲載されている厚冊のものです。その15号が刊行されました。 2020年3月20日 公益財団法人日本近代文学館編刊 定価1,040円(税込) B5判 236頁
2020年3月、年誌15号を刊行いたしました。
文学館の所蔵資料紹介の機会を増やすため、「日本近代文学館年誌―資料探索」という紀要を年に一冊刊行しております。
文学者の書下ろしエッセイ、館蔵資料を用いた論考、未発表資料の翻刻と解説を収録。お申し込みは文学館まで(一般1040円/会員880円)。
目次
エッセイ
ひかりの在処 三角みづ紀
与謝野夫妻の書簡と祖父古澤幸吉のこと 古澤陽子
一人の両性具有者の手記――南方熊楠とミシェル・フーコーの共振 安藤礼二
北関東のその土地へ 宮沢章夫
高村光太郎と「書」 古谷稔
論考
春のや主人/二葉亭四迷合作「新編浮雲 上篇」の書誌について 飛田良文
お縫の将来への想像力――樋口一葉「ゆく雲」精読―― 戸松泉
太宰治『お伽草紙』の本文研究――新出原稿を中心に―― 安藤宏
ひと・地域・コレクションをつなぐ――文学展「浅草文芸、戻る場所」から考える―― 金井景子
伊藤整『発掘』の原稿について――人間認識の転回―― 飯島洋
井上満 獄中の記(1936―1938) 郡司良
初期春陽堂の研究――東京芝新橋書林の時代まで 山田俊治
資料紹介
資料翻刻1 片山敏彦宛諸氏書簡(2) 石川賢・小川桃 他
資料翻刻2 内海信之宛諸氏書簡 石川賢・小川桃 他
書道史研究家で、東京国立博物館名誉館員の古谷稔氏による「高村光太郎と「書」」。同館所蔵の光太郎の書作品のうち、3点について専門家のお立場から解説なさっています。
3点中2点は、平成11年(1999)、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご著書『高村光太郎 書の深淵』にも図版入りで取り上げられています。
戦後、花巻郊外旧太田村に蟄居中の昭和24年(1949)に書かれた色紙が2点。まず、短歌「太田村山口山の山かけにひえをくらひてせみ彫る吾は」。「山かけ」は濁点が省略されていますが「山かげ(山陰)」です。「くらひて」の「ひ」は変体仮名的に「「比」、「せみ」の「み」と「吾は」の「は」も同様に「ミ」、「ハ」と書かれています。こうした部分もアクセントになっているように当方には思えます。
「せみ」は木彫の「蝉」。大正末から昭和初めにかけ、光太郎が好んで彫った題材です。従来、4点の現存が確認されていましたが、このたび5点目が出てきまして、5月22日(金)から富山県水墨美術館さんで開催予定の企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品されます。
2020/4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。
2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。
では、戦後の太田村でも「蝉」を彫っていたのか、というと、きちんとした作品として彫っていたわけではないようですが、手すさび、または腕を鈍らせないための修練といった意味合いで彫っていたようです。光太郎の山小屋を訪ねた詩人の竹内てるよ、地元在住の浅沼隆氏などの目撃談があります。
北川先生、『書の深淵』を書かれた当時はその目撃談の存在をご存じなかったようで、同書では「だが、「蝉」は願望の象徴にすぎず、この時点でもその後も、作品として彫られることはなかった」と解説されていましたが、その後、目撃談に気づかれ、「やはり本当に太田村でも「蝉」を彫っていたんですね」とおっしゃっていました。ただし、戦後の「蝉」の現存は確認できていません。
ちなみに古谷氏は「「蝉」は光太郎の代表作で、この時期にも数多く制作されたようである」と書かれていますが、「数多く」というのは絶対にありませんので、よろしくお願いいたします。
2点めも色紙で、光太郎が好んで揮毫した短句「うつくしきもの満つ」。先述の「太田村……」の短歌色紙とほぼ同時に書かれたものです。
「満つ」を、やはり片仮名で変体仮名的に「ミつ」と書いたバージョンも存在しますが、こちらは漢字で「満つ」となっています。山梨県富士川町の光太郎文学碑は「ミつ」と書かれた揮毫から写されたもので、「ミつ」を「みつ」ではなく「三つ」と読んでしまい、「高村光太郎は三つの「美しいもの」を愛した。一つは何々で……二つ目は何それで……」といったトンデモ解釈が流布しており、閉口しています。
3点目は、書画帖『有機無機帖』。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京したあと、昭和28年(1953)頃から書かれはじめました。光太郎と親しく、岩波文庫版『高村光太郎詩集』(昭和30年=1955)の編集に当たった美術史家・奥平英雄が光太郎に乞うて書いて貰ったものです。ちなみに先述の色紙2点も奥平に贈られたものです。
詩や短歌、「ロダンの言葉」やヴェルハーランの詩の訳、さらには智恵子の紙絵を模して光太郎が作った紙絵まで、全20面ほどの書画帖です。
古谷氏、このうちの紙絵が附された詩「リンゴばたけに」の面について解説されています。
古谷氏は、かつて東京国立博物館さんで奥平と同僚だったそうで、奥平の歿後、日本近代文学館さんに寄贈された光太郎の書を同館でご覧になり、この稿を書かれたとのこと。同館では、光太郎書作品、展示されているわけではなく、収蔵庫に仕舞われています。ただ、事前に申請をすれば収蔵庫から出して下さって観られるというシステムになっています。
上記以外にも、光太郎の書がたくさん収蔵されていて、先ほども「蝉」の件で触れましたが、5月22日(金)から開催予定の富山県水墨美術館さんの「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品されます。上記3点はすべて出る他、短歌を大書した幅、宮沢賢治の詩の一節を書いたもの、短句揮毫の色紙など、日本近代文学館さん所蔵のものは10点並ぶ予定です。
大半は「奥平コレクション」に含まれるものです。奥平がそれらについて語った記録は、以下の書籍等に詳述されています。ご参考までに。
『晩年の高村光太郎』 奥平英雄著 二玄社 昭和37年(1962)
『晩年の高村光太郎 特装版』 〃 瑠璃書房 昭和51年(1976) (光太郎と奥平の対談を収録したカセットテープつき)
『忘れ得ぬ人々 一美術史家の回想』 〃 瑠璃書房 平成5年(1993)
雑誌『書画船』№1 二玄社 平成9年(1997)
富山では、他にも、他館や個人の方所蔵の優品を、まだまだたくさん展示予定でして(また折を見てご紹介いたします)、新型コロナによる緊急事態宣言が出ましたが、始まるころにはこの騒ぎも治まり、予定通り開催されることを祈念いたしております。
4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。
『日本近代文学館年誌 資料探索 15』は、日本近代文学館さんのサイトから購入可能です。ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
私には子供がありません。
2020年3月、年誌15号を刊行いたしました。
文学館の所蔵資料紹介の機会を増やすため、「日本近代文学館年誌―資料探索」という紀要を年に一冊刊行しております。
文学者の書下ろしエッセイ、館蔵資料を用いた論考、未発表資料の翻刻と解説を収録。お申し込みは文学館まで(一般1040円/会員880円)。
目次
エッセイ
ひかりの在処 三角みづ紀
与謝野夫妻の書簡と祖父古澤幸吉のこと 古澤陽子
一人の両性具有者の手記――南方熊楠とミシェル・フーコーの共振 安藤礼二
北関東のその土地へ 宮沢章夫
高村光太郎と「書」 古谷稔
論考
春のや主人/二葉亭四迷合作「新編浮雲 上篇」の書誌について 飛田良文
お縫の将来への想像力――樋口一葉「ゆく雲」精読―― 戸松泉
太宰治『お伽草紙』の本文研究――新出原稿を中心に―― 安藤宏
ひと・地域・コレクションをつなぐ――文学展「浅草文芸、戻る場所」から考える―― 金井景子
伊藤整『発掘』の原稿について――人間認識の転回―― 飯島洋
井上満 獄中の記(1936―1938) 郡司良
初期春陽堂の研究――東京芝新橋書林の時代まで 山田俊治
資料紹介
資料翻刻1 片山敏彦宛諸氏書簡(2) 石川賢・小川桃 他
資料翻刻2 内海信之宛諸氏書簡 石川賢・小川桃 他
書道史研究家で、東京国立博物館名誉館員の古谷稔氏による「高村光太郎と「書」」。同館所蔵の光太郎の書作品のうち、3点について専門家のお立場から解説なさっています。
3点中2点は、平成11年(1999)、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご著書『高村光太郎 書の深淵』にも図版入りで取り上げられています。
戦後、花巻郊外旧太田村に蟄居中の昭和24年(1949)に書かれた色紙が2点。まず、短歌「太田村山口山の山かけにひえをくらひてせみ彫る吾は」。「山かけ」は濁点が省略されていますが「山かげ(山陰)」です。「くらひて」の「ひ」は変体仮名的に「「比」、「せみ」の「み」と「吾は」の「は」も同様に「ミ」、「ハ」と書かれています。こうした部分もアクセントになっているように当方には思えます。
2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。
では、戦後の太田村でも「蝉」を彫っていたのか、というと、きちんとした作品として彫っていたわけではないようですが、手すさび、または腕を鈍らせないための修練といった意味合いで彫っていたようです。光太郎の山小屋を訪ねた詩人の竹内てるよ、地元在住の浅沼隆氏などの目撃談があります。
北川先生、『書の深淵』を書かれた当時はその目撃談の存在をご存じなかったようで、同書では「だが、「蝉」は願望の象徴にすぎず、この時点でもその後も、作品として彫られることはなかった」と解説されていましたが、その後、目撃談に気づかれ、「やはり本当に太田村でも「蝉」を彫っていたんですね」とおっしゃっていました。ただし、戦後の「蝉」の現存は確認できていません。
ちなみに古谷氏は「「蝉」は光太郎の代表作で、この時期にも数多く制作されたようである」と書かれていますが、「数多く」というのは絶対にありませんので、よろしくお願いいたします。
2点めも色紙で、光太郎が好んで揮毫した短句「うつくしきもの満つ」。先述の「太田村……」の短歌色紙とほぼ同時に書かれたものです。
「満つ」を、やはり片仮名で変体仮名的に「ミつ」と書いたバージョンも存在しますが、こちらは漢字で「満つ」となっています。山梨県富士川町の光太郎文学碑は「ミつ」と書かれた揮毫から写されたもので、「ミつ」を「みつ」ではなく「三つ」と読んでしまい、「高村光太郎は三つの「美しいもの」を愛した。一つは何々で……二つ目は何それで……」といったトンデモ解釈が流布しており、閉口しています。
3点目は、書画帖『有機無機帖』。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京したあと、昭和28年(1953)頃から書かれはじめました。光太郎と親しく、岩波文庫版『高村光太郎詩集』(昭和30年=1955)の編集に当たった美術史家・奥平英雄が光太郎に乞うて書いて貰ったものです。ちなみに先述の色紙2点も奥平に贈られたものです。
詩や短歌、「ロダンの言葉」やヴェルハーランの詩の訳、さらには智恵子の紙絵を模して光太郎が作った紙絵まで、全20面ほどの書画帖です。
古谷氏、このうちの紙絵が附された詩「リンゴばたけに」の面について解説されています。
古谷氏は、かつて東京国立博物館さんで奥平と同僚だったそうで、奥平の歿後、日本近代文学館さんに寄贈された光太郎の書を同館でご覧になり、この稿を書かれたとのこと。同館では、光太郎書作品、展示されているわけではなく、収蔵庫に仕舞われています。ただ、事前に申請をすれば収蔵庫から出して下さって観られるというシステムになっています。
大半は「奥平コレクション」に含まれるものです。奥平がそれらについて語った記録は、以下の書籍等に詳述されています。ご参考までに。
『晩年の高村光太郎』 奥平英雄著 二玄社 昭和37年(1962)
『晩年の高村光太郎 特装版』 〃 瑠璃書房 昭和51年(1976) (光太郎と奥平の対談を収録したカセットテープつき)
『忘れ得ぬ人々 一美術史家の回想』 〃 瑠璃書房 平成5年(1993)
雑誌『書画船』№1 二玄社 平成9年(1997)
4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。
『日本近代文学館年誌 資料探索 15』は、日本近代文学館さんのサイトから購入可能です。ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
私には子供がありません。
アンケート「児童と映画」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳
『いとし児』という雑誌が実施したアンケートで、質問は「一、お子様に映画をお見せになりますか、否や、その理由。 二、月に何回ぐらゐ。 三、種類の御選択は。」。光太郎に子供がいないということも調べずに、アンケートを依頼したようです。
で、回答が上記の一言のみ。かなりムッとしている光太郎の顔が思い浮かびますが、それをそのまま載せる方も載せる方だと思います(笑)。
結局、光太郎智恵子夫妻に子供は生まれませんでしたが、単にできなかったのか、それとも、あえて作らなかったのか、何とも言えません。光雲との芸術上の確執に悩み、「親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。(略)僕を外国に寄来したのは親爺の一生の誤りだった。(略)僕は今に鈴虫の様なことをやるにきまつてゐる。」(「出さずにしまつた手紙の一束」明治43年=1910)とまで書いた光太郎ですが、真相は闇の中です。
で、回答が上記の一言のみ。かなりムッとしている光太郎の顔が思い浮かびますが、それをそのまま載せる方も載せる方だと思います(笑)。
結局、光太郎智恵子夫妻に子供は生まれませんでしたが、単にできなかったのか、それとも、あえて作らなかったのか、何とも言えません。光雲との芸術上の確執に悩み、「親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。(略)僕を外国に寄来したのは親爺の一生の誤りだった。(略)僕は今に鈴虫の様なことをやるにきまつてゐる。」(「出さずにしまつた手紙の一束」明治43年=1910)とまで書いた光太郎ですが、真相は闇の中です。