1007新型コロナウイルスの影響で、午後5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で予定しておりました集いは中止といたしましたが、今日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日です。

例年、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手花巻でも、詩碑前祭と連翹忌法要を挙行して下さっていますが、そちらも中止。

追記 「詩碑前祭」は行ってくださったそうです。

当方、皆様を代表して、駒込染井霊園の光太郎奥津城に墓参(公共交通機関は使わず、自家用車にて行って参ります)、それをもちまして第64回連翹忌とさせていただきます。皆様もそれぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければと存じます。

ちなみにその終焉の地・中野の貸しアトリエで、光太郎が息を引き取ったのは、2日の未明、午前3時45分ですので、大半の方はお休みになっている時刻かと存じます。東日本大震災のように午後2時46分に黙祷、というわけにはいきませんが、それぞれお好きな時刻に光太郎を偲んでいただければ幸いです。

ところで、連翹忌につき、先週、長野県の松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんが、一面コラムでご紹介下さいました。   

2020.3.29 みすず野

 冬の上高地を初めて歩いたのは20年近く前だ。膝まで埋まる雪をつぼ足で踏み、徳沢の冬期小屋にたどり着いた。迎えてくれた火炉と小屋番の温かさを忘れない。静寂と景色にすっかり魅了され、翌年も翌々年も釜トンネルをくぐった◆高村光太郎の詩集『智恵子抄』にある「狂奔する牛」は大正2(1913)年夏の思い出だとか。徳沢に牧場があった。智恵子が牛の群れを怖がったのだろう。光太郎は〈今日はもう画くのを止して/この人跡たえた神苑をけがさぬほどに/又好きな焚火をしませう〉と声を掛ける◆徳沢の徳澤園に社長の上條敏昭さん(70)を訪ね、冬期小屋が5年前に閉じられたと聞いたのは昨夏だった。「気ままに文学散歩」の取材で井上靖の『氷壁』にまつわる話を伺った。その時草稿を見せてもらった『徳澤園135年史』が完成した。牧場時代からの歩みである◆絵の道具を持った智恵子が上高地にやって来る。光太郎は徳本峠を越えて岩魚止で迎えた。二人は翌年結婚する。〈智恵子は東京に空が無いといふ/ほんとの空が見たいといふ〉4月2日は光太郎が好んだというレンギョウの花にちなんで連翹忌。

一面コラムといえば、一昨日の『日本農業新聞』さんの一面コラム「四季」でも、光太郎に触れて下さいました。   

四季 2020年03月31日

 きょうは一つの区切り、年度末である。令和元年度を振り返れば、新型コロナを筆頭に重大事が相次ぐ▼小欄が担う1面コラムは新聞にとり特別な存在である。いやが応でも目に付く場所に位置する。最重要記事を掲げる1面は顔と同じ。コラムは人に例えれば口に当たる。その日のニュースが明るい暗いで口元が上下し複雑な感情を抱えながらの筆運びに。だが、志村けんさんの突然の悲報にはどんな追悼をささげればいいのか言葉を失う▼先達の力も借り切り開いてきた道を歩む。しかし、この先は自らつくらないと前に進めない。〈僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎の『道程』冒頭の珠玉の言葉を思う。いや、昭和の歌姫・美空ひばりさんの名曲「川の流れのように」がふさわしい。〈地図さえない それもまた人生〉と胸に刻みながら▼伝説の名コラムニストで深代惇郎が浮かぶ。深い洞察力と縦横無尽の筆遣い。豊かな表現と語彙(ごい)の多さ。喜怒哀楽に深みと軽やかさが備わる。コラム書きなら必ず、その著書に目を通し味わいある作品に深く沈み込む。そして自らの筆力のなさを思い知る▼ただ、非力ならではの味わいは出ないか。小欄はタイトル同様に<四季>の彩りを感じ、朝の食卓に吹く快い“そよ風”でありたい。

両紙ともに、これまでも時折、光太郎に触れて下さっていて、ありがたく存じます。

それにしても、新たな年度となりましたが、このような形で迎える新年度、未知の領域といわざるを得ません。そういう意味では、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」でもあります。力を合わせ、新型コロナの脅威に立ち向かって行く道を作るべきかと存じます。


【折々のことば・光太郎】

かかる時代に生きる者は、心の悩を当然の事として立つ可きです。心の悩むことを忌避するのは卑怯になります。朗らかなる可きは霊魂です。霊魂は人倫を絶したものにつながつてゐます。此のみはいかなる時にも天空の清さを持つてゐます。

アンケート「懊悩と清朗」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

発表されたのは昭和2年(1927)元日発行の、智恵子の母校・日本女子大学校同窓会である桜楓会機関誌『家庭週報』ですが、執筆は前年12月と推定され、大正天皇崩御の直前、金融恐慌の気配が漂いつつあった時期です。掲載紙の「年頭言」では、同紙記者がこのアンケートの趣旨として、次のように述べています。

新しき年を重ねるに当りまして、悲しみは悲しみとして、お互に何等かの向上を希むることゝ存じます。(略)このもの騒がしい世界に面接して、自分たちは外界をどう支配して行かうか、どうしたらややもすれば引きずられ勝ちな生活を抜け切つて朗らかな心地よい生活に歩み入る事が出来るか、かういふ問題について考へますことは、どなたもが望まれることであらうと存じまして、先見の方々のお話を承り、左に掲げることに致しました。

それに対し、光太郎は上記の通り、悩むことをおそれるな、と回答したわけです。

新型コロナの脅威に対する恐怖、それはそれとして受け入れ、なおかつ朗らかなるべき魂を涵養すること、そういったことが重要なのかもしれませんね。