昨日の『毎日新聞』さん朝刊、「歌壇/俳壇」のページから。明星研究会等でお世話になっている、歌人の松平盟子氏の玉稿です。
では、なぜ「明星」にかくも俊秀たちが集まったのか。
創刊は一九〇〇(明治三十三)年四月。ただしページ数も限られたタブロイド版で、雑誌形態に移行したのは同年九月。 ここから「明星」は飛躍的に読者を増やす。それは形態の違いによるものではなく、雑誌本体が画期的であったからだった。
まず表紙画に読者は驚倒しただろう。瞼(まぶた)を伏せ髪を長く垂らした若い女性は乳房もあらわな半裸。しかし片手に持つ白百合が聖女の面持ちを演出し、その周囲には大小の星が輝く。フランスのポスター画家ミュシャの模倣ではあったが、まさに西洋の匂いが横溢( おういつ)する。
次に注目すべきは鳳(のちの与謝野)晶子の歌の鮮烈さだろう。鉄幹との恋愛以前にあって、こんな歌が掲載されている。
・病みませるうなじに細きかひなまきて熱にかわける御口(みくち)を吸はむ
鉄幹が多忙で発熱したと知り、ではあなたの首に腕をまき口づけして差し上げましょうの意。この大胆さは翻訳文学の影響下にあってのものだろう。「明星」は創刊号から外国文学の紹介にページを割き、留学などで欧州にある画家の滞在記が載った。西欧の美術本からの図版とおぼしき作品も数多く本誌を飾ることになる。鉄幹に宛てた晶子、山川登美子らの私信さえも掲載され、リアルタイムのSNSにも似た様相を呈する。
重要なのは十項目余の「新詩社清規」だろう。「明星」の発行母体は東京新詩社。ゆえに同社の規則である。虚名のために詩を書かない。過去の詩歌の模倣ではなく、新しい「国詩」を目指して互いに「自我独創」の詩を楽しむべし。交情はあっても師弟の関係はなし。このような理想の火が燃やされた。
二十世紀スタート直前。日清戦争に勝利し自己肯定感を抱く日本人は、新世紀をときめきつつ迎えようとしていた。鉄幹の野心は新時代の詩歌を「明星」で展開することにあり、その勢いと華やかさに惹(ひ)かれた若者たちが続々と集まったのである。(まつだいら・めいこ=歌人)
新詩社発行の雑誌『明星』が創刊されたのが明治33年(1900)なので、今年はちょうど120年という節目の年です。
光太郎作品が同誌に初めて載ったのは、創刊の年10月の第7号でした。この時光太郎、数え18歳でした。
本名ではなく、「篁(たかむら)砕雨(さいう)」の号を使用しています。青年らしい気概に溢れている点など、後の口語自由詩にもつながる要素が見て取れます。ただ、留学以前の掲載作は、与謝野寛(鉄幹)の添削が激しく入り、光太郎は「自分の作とは言えない」という感覚もあったようです。
光太郎の文筆作品は、これ以前にも『東京美術学校校友会雑誌』に短歌、『読売新聞』に俳句、そして雑誌『ホトトギス』にも俳句が載りましたが、それらは単発だったり、一投稿者としての掲載だったりでしたので、光太郎の本格的文学活動の出発点は、やはりこの『明星』と言っていいでしょう。
この後、光太郎は明治40年(1907)までの間に、短歌やエッセイ、戯曲などを断続的に寄稿しています。同39年(1906)からは、留学先のニューヨークからの寄稿でした。
下記画像は明治34年(1901)1月、新詩社の「鎌倉小集」という集まりでの記念撮影。由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうです。
後列左端が光太郎、同じく後列右から二人目が与謝野寛、前列の右端が、光太郎の親友だった水野葉舟です。光太郎、数え19歳ですが満ですと17歳。まだ若干のあどけなさが残っていますね。
松平氏を中心とする明星研究会さんでは、毎年春に「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」を開催されていて、今春は3月20日(金)に「明治浪漫主義の鮮やかなる狼煙~「明星」創刊120年」と題し、講演や対談が予定されていたのですが、新型コロナのために中止となってしまいました。
これも毎年、秋には研究会が持たれていますので、そのころにはコロナ騒ぎも収束し、例年通り開催できることを切に祈っております。
【折々のことば・光太郎】
三、酒を少しのむといゝ気持になります。友達と麦酒をのむのは楽しみです。
四、自然に任せて節酒などしてゐませんが、おのづから矩を踰えずです。
「「明星」創刊120年 理想の火、俊秀集め=松平盟子
もし与謝野鉄幹という詩人が出現しなかったら。もし「明星」という文芸美術誌が鉄幹によって創刊されなかったら。歴史に「もし」はないが、そう仮定したくなるのは、二十世紀初頭を彩るこの雑誌から優れた詩人・歌人を多く輩出したからだ。与謝野晶子、石川啄木、北原白秋、吉井勇、高村光太郎。名を列挙するだけで納得されよう。では、なぜ「明星」にかくも俊秀たちが集まったのか。
創刊は一九〇〇(明治三十三)年四月。ただしページ数も限られたタブロイド版で、雑誌形態に移行したのは同年九月。 ここから「明星」は飛躍的に読者を増やす。それは形態の違いによるものではなく、雑誌本体が画期的であったからだった。
まず表紙画に読者は驚倒しただろう。瞼(まぶた)を伏せ髪を長く垂らした若い女性は乳房もあらわな半裸。しかし片手に持つ白百合が聖女の面持ちを演出し、その周囲には大小の星が輝く。フランスのポスター画家ミュシャの模倣ではあったが、まさに西洋の匂いが横溢( おういつ)する。
次に注目すべきは鳳(のちの与謝野)晶子の歌の鮮烈さだろう。鉄幹との恋愛以前にあって、こんな歌が掲載されている。
・病みませるうなじに細きかひなまきて熱にかわける御口(みくち)を吸はむ
鉄幹が多忙で発熱したと知り、ではあなたの首に腕をまき口づけして差し上げましょうの意。この大胆さは翻訳文学の影響下にあってのものだろう。「明星」は創刊号から外国文学の紹介にページを割き、留学などで欧州にある画家の滞在記が載った。西欧の美術本からの図版とおぼしき作品も数多く本誌を飾ることになる。鉄幹に宛てた晶子、山川登美子らの私信さえも掲載され、リアルタイムのSNSにも似た様相を呈する。
重要なのは十項目余の「新詩社清規」だろう。「明星」の発行母体は東京新詩社。ゆえに同社の規則である。虚名のために詩を書かない。過去の詩歌の模倣ではなく、新しい「国詩」を目指して互いに「自我独創」の詩を楽しむべし。交情はあっても師弟の関係はなし。このような理想の火が燃やされた。
二十世紀スタート直前。日清戦争に勝利し自己肯定感を抱く日本人は、新世紀をときめきつつ迎えようとしていた。鉄幹の野心は新時代の詩歌を「明星」で展開することにあり、その勢いと華やかさに惹(ひ)かれた若者たちが続々と集まったのである。(まつだいら・めいこ=歌人)
新詩社発行の雑誌『明星』が創刊されたのが明治33年(1900)なので、今年はちょうど120年という節目の年です。
光太郎作品が同誌に初めて載ったのは、創刊の年10月の第7号でした。この時光太郎、数え18歳でした。
本名ではなく、「篁(たかむら)砕雨(さいう)」の号を使用しています。青年らしい気概に溢れている点など、後の口語自由詩にもつながる要素が見て取れます。ただ、留学以前の掲載作は、与謝野寛(鉄幹)の添削が激しく入り、光太郎は「自分の作とは言えない」という感覚もあったようです。
光太郎の文筆作品は、これ以前にも『東京美術学校校友会雑誌』に短歌、『読売新聞』に俳句、そして雑誌『ホトトギス』にも俳句が載りましたが、それらは単発だったり、一投稿者としての掲載だったりでしたので、光太郎の本格的文学活動の出発点は、やはりこの『明星』と言っていいでしょう。
この後、光太郎は明治40年(1907)までの間に、短歌やエッセイ、戯曲などを断続的に寄稿しています。同39年(1906)からは、留学先のニューヨークからの寄稿でした。
下記画像は明治34年(1901)1月、新詩社の「鎌倉小集」という集まりでの記念撮影。由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうです。
後列左端が光太郎、同じく後列右から二人目が与謝野寛、前列の右端が、光太郎の親友だった水野葉舟です。光太郎、数え19歳ですが満ですと17歳。まだ若干のあどけなさが残っていますね。
松平氏を中心とする明星研究会さんでは、毎年春に「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」を開催されていて、今春は3月20日(金)に「明治浪漫主義の鮮やかなる狼煙~「明星」創刊120年」と題し、講演や対談が予定されていたのですが、新型コロナのために中止となってしまいました。
これも毎年、秋には研究会が持たれていますので、そのころにはコロナ騒ぎも収束し、例年通り開催できることを切に祈っております。
【折々のことば・光太郎】
三、酒を少しのむといゝ気持になります。友達と麦酒をのむのは楽しみです。
四、自然に任せて節酒などしてゐませんが、おのづから矩を踰えずです。
アンケート「名士の飲酒所感」より 大正14年(1925) 光太郎43歳
「三」は「酒が身体に齎(もたら)す御体験について。」、「四」が「飲酒或は節酒に対して何か御自身で御実行になつてゐらるゝことはございませんか。」という問いへの回答です。
当方、アルコールを摂取する習慣がほぼほぼ無くなりましたが、雰囲気で酔えますので、「三」の回答には賛成します。ただし、「おのづから矩(のり)を踰(こ)えず」(『論語』からの引用で、「自分の思うがままに行動しても、正道から外れない」の意)ではない人が同席するのは勘弁こうむりたいですね(笑)。
東京都の小池知事は、新型コロナ感染予防のため、「若者はカラオケ・ライブハウス、中高年はバー・ナイトクラブなど接待を伴う飲食店を控えて」と要請しています。この状況下では仕方がないでしょう。もっとも、自粛要請など何処吹く風、の「ワーストレディー」も居るようですが。
当方、アルコールを摂取する習慣がほぼほぼ無くなりましたが、雰囲気で酔えますので、「三」の回答には賛成します。ただし、「おのづから矩(のり)を踰(こ)えず」(『論語』からの引用で、「自分の思うがままに行動しても、正道から外れない」の意)ではない人が同席するのは勘弁こうむりたいですね(笑)。
東京都の小池知事は、新型コロナ感染予防のため、「若者はカラオケ・ライブハウス、中高年はバー・ナイトクラブなど接待を伴う飲食店を控えて」と要請しています。この状況下では仕方がないでしょう。もっとも、自粛要請など何処吹く風、の「ワーストレディー」も居るようですが。