手前味噌で恐縮すが、当会発行の『光太郎資料53』、完成しました。
本来、4月2日(木)に開催のはずだった第64回連翹忌の集い席上で配付し、その後、お申し込みいただいている各位、関係諸団体等に発送する予定でした。
元々は当会顧問であらせられた北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺等を旨として、36集までを不定期に発行されていたもので、平成24年(2012)から名跡を引き継ぎ、当会として年2回発行しております。北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは引き継がせていただいております。
現在はパソコンで原稿を作成、印刷のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費で7万円ほどかかっています。
表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。
今号の内容は、以下の通りです。
・「光太郎遺珠」から 第十七回 父母弟妹・親族・姻族(一)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、父・光雲、母・わか、妹・山端しづに関する光太郎作品をまとめました。
・光太郎回想・訪問記
文壇の人々 高村光太郎氏(『秀才文壇』より)/日暮里渡辺町界隈(抄)(『長谷川利行』より)矢野文夫
これまであまり知られていない(と思われる)、戦前の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。「文壇の人々」は、明治45年(明治45年)4月、雑誌『秀才文壇』の第12巻第5号に載った無署名の記事ですが、光太郎と交流があった編輯主筆・野口安治の執筆によるものと思われます。一昨年、智恵子も通っていた太平洋画会(現・太平洋美術会)の松本昌和氏よりそのコピーを頂きました。
「日暮里渡辺町界隈」は、画家・長谷川利行(明24=1891~昭15=1940)と親しかった詩人・美術評論家・日本画家の矢野文夫(明34=1901~平7=1995)による、智恵子が歿した直後くらいの光太郎に関する回想。日暮里渡辺町界隈の飲み屋で時々光太郎と出くわしたことや、駒込林町の光太郎アトリエを訪問した体験談です。
・ 光雲談話筆記集成 『大江戸座談会』より 江戸の防御線――見附の話(その一)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第3巻第7号(昭和4年=1929)。父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。
・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十七回 川古温泉(群馬県)
昭和4年(1929)に光太郎が訪れ、詩「上州川古「さくさん」風景」(同)の舞台となった、群馬県みなかみ市の川古温泉をご紹介しています。
・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その一)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についてです。確認できている限り、光太郎が歌詞として作った最後の作品です。
本来、4月2日(木)に開催のはずだった第64回連翹忌の集い席上で配付し、その後、お申し込みいただいている各位、関係諸団体等に発送する予定でした。
元々は当会顧問であらせられた北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺等を旨として、36集までを不定期に発行されていたもので、平成24年(2012)から名跡を引き継ぎ、当会として年2回発行しております。北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは引き継がせていただいております。
現在はパソコンで原稿を作成、印刷のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費で7万円ほどかかっています。
表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。
今号の内容は、以下の通りです。
・「光太郎遺珠」から 第十七回 父母弟妹・親族・姻族(一)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、父・光雲、母・わか、妹・山端しづに関する光太郎作品をまとめました。
・光太郎回想・訪問記
文壇の人々 高村光太郎氏(『秀才文壇』より)/日暮里渡辺町界隈(抄)(『長谷川利行』より)矢野文夫
これまであまり知られていない(と思われる)、戦前の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。「文壇の人々」は、明治45年(明治45年)4月、雑誌『秀才文壇』の第12巻第5号に載った無署名の記事ですが、光太郎と交流があった編輯主筆・野口安治の執筆によるものと思われます。一昨年、智恵子も通っていた太平洋画会(現・太平洋美術会)の松本昌和氏よりそのコピーを頂きました。
「日暮里渡辺町界隈」は、画家・長谷川利行(明24=1891~昭15=1940)と親しかった詩人・美術評論家・日本画家の矢野文夫(明34=1901~平7=1995)による、智恵子が歿した直後くらいの光太郎に関する回想。日暮里渡辺町界隈の飲み屋で時々光太郎と出くわしたことや、駒込林町の光太郎アトリエを訪問した体験談です。
・ 光雲談話筆記集成 『大江戸座談会』より 江戸の防御線――見附の話(その一)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第3巻第7号(昭和4年=1929)。父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。
・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十七回 川古温泉(群馬県)
昭和4年(1929)に光太郎が訪れ、詩「上州川古「さくさん」風景」(同)の舞台となった、群馬県みなかみ市の川古温泉をご紹介しています。
・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その一)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についてです。確認できている限り、光太郎が歌詞として作った最後の作品です。
・高村光太郎初出索引(年代順 一)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、今号から年代順ということで。
ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。
ゆうちょ口座 00100-8-782139 加入者名 小山 弘明
他金融機関からの振り込み用口座番号
〇一九(ゼロイチキュウ)店(019) 当座 0782139
【折々のことば・光太郎】
街を歩く時、松飾の香(にほひ)のする中で美しい娘さん達が追羽子をしてゐる図を思ひ出すと新年は全く新しい詩に満ちてゐますね。
アンケート「我家の三ヶ日」より 大正14年(1925) 光太郎43歳
少々季節外れですが(笑)。「新年」同様、もうすぐやってくる「新年度」も例年であれば「新しい詩に満ちて」いるように思われますが、今年は新型コロナの影響で、なにやら不穏な新年度になりそうですが、こんな時こそ、心は豊かにしておきたいものです。