来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。詳細は明日のブログにて。

明治末、光太郎と留学仲間だった画家・津田青楓の大規模回顧展が開催中です。

3月14日(土)の『日本経済新聞』さん。

漱石「道草」を彩った画家、津田青楓の自由な精神 東京・練馬区立美術館で没後初の本格的回顧展

夏目漱石晩年の長編「道草」「明暗」の装丁を手がけた011画家、津田青楓(せいふう)は、1978年に97歳の長寿を全うした。東京・練馬区立美術館で開催中の「背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」展は、この画家の曲折に富む生涯をたどる没後初の本格的回顧展だ。その多面的な仕事は、近代日本の変転の歴史を映し出す。

津田青楓の名で多くの人が思い浮かべるのは、漱石門下の画家としての活動ではなかろうか。漱石と寺田寅彦、小宮豊隆ら漱石宅に集う弟子たちを描いた俳画風の作品は漱石の評伝などにたびたび掲載されてきたし、橋口五葉の後を受けて担当した漱石の著作の装丁では、「道草」や「明暗」などに風合い豊かなデザインを施している。
漱石の書簡集に親しんだ人にとっていっそう印象深いのは、13歳年下の青楓に宛てた漱石晩年の手紙の数々だろう。大の美術好きだった漱石にとって青楓は心安い画友だった。漱石は自分が描いた絵の批評を仰いだり、ともに展覧会に出かけたりと交遊を続けながら、時々の心境を腹蔵なくこの弟子に明かしている。
青楓生誕140年を記念する今展は、漱石との交遊の軌跡を、装丁本やスケッチ、青楓宛ての漱石の書簡などから丁寧に跡づけている。ただ、生前の漱石と青楓の交流は5年間余りにすぎない。それだけでは語り尽くせない青楓の仕事の多面性に今展は光を当てる。


青楓は、京都市中の生け花の師匠の家に生まれ、16歳ごろ歴史画で名014を成した谷口香嶠に入門。京都市立染織学校を経て、京都高島屋図案部に勤めながら浅井忠らが主宰する関西美術院で洋画のデッサンを学んだ。

この10代末から20代にかけての仕事で印象的なのは、モダンで清新な図案の数々だ。染色や織物などの工房が多い京都では当時、豪華な図案集が多く出版され、その新たな担い手として、若い青楓は世に出た。1903年刊の図案集「うづら衣」所収の図案は、円山四条派以来の写生の伝統の上に、アールヌーヴォーなどの新しい西洋美術の動向をも摂取した革新性がある。商業用途で培ったデザインセンスは、後の漱石はじめ鈴木三重吉ら多くの著述家の本の装丁に生かされたのである。

20代後半には農商務省海外実業練習生としてフランスに3年間留学、安井曽太郎、荻原守衛、高村光太郎といった画家や彫刻家と交遊し、本格的に洋画家としての道を歩み出す。しかし、同じ関西美術院出身の安井や梅原龍三郎が洋画壇の中心的な存在になったのに対し、二科会の創立メンバーでもあった青楓の油彩画の全貌は今なお、とらえがたい。人物画や静物に、物質感を的確につかむ確かな技量を示す作品があるが、本格的な研究はこれからだろう。

漱石の死後、関東大震災を経て、青楓は自らの画塾を京都で起013こし、マルクス経済学者、河上肇の感化を受ける。その社会問題への強い意識が「犠牲者」といった油彩画の代表作に結びつく。
「犠牲者」は作家の小林多喜二が獄死した33年(昭和8年)の作で、拷問を受けた運動家の姿を十字架のキリスト像を意識しながら描いた作品だが、これを制作中に青楓は、警察に踏み込まれ、一時拘留された。青楓はプロレタリア運動と関係を断つことを表明、洋画もやめ、二科会からも脱会する。しかし、この作品は、戦後50~60年代以降、思想弾圧に対する告発をこめた作品として評価されてきた。
長い兵役や貧乏を体験し、美術が暮らしの糧となった青楓は、他の漱石門下のエリートたちとは、異なる社会観を抱かざるを得なかったのだろう。

その中で、大正期から長く描き続けた文人画風の日本画は、青楓の画業の真価を今に伝える。何ものにも縛られない自由な境地は、生活に追われたこの画家にとって、おのずと湧き上がる憧れの世界でもあったろう。大正期の新南画の流れをくむ18年の「お茶の水風景」や37年の「山高水長画巻」は、詩書画に通じた画家の筆墨から、生動する気韻が伝わる作品だ。
この画境は、人間のエゴイズムを書き続けながら絵や書に救いを求めた晩年の漱石の心境と通い合う。文豪が愛した脱俗の天地が、愛(まな)弟子の画面に生き生きと表れているのを見るのは、何とも心地がいい。4月12日まで。

開催要項等、以下の通りです。

生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和

期 日 : 2020年2月21日(金)~4月12日(日)
会 場 : 
練馬区立美術館 東京都練馬区貫井1-36-16
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 1,000円 高大生・65~74歳 800円 中学生以下・75歳以上 無料

1880年に京都市中京区に生まれた津田青楓は、1896年に生活の糧として図案制作をはじめたことから画家人生の第一歩を踏み出します。歴史画家谷口香嶠に師事し日本画を学び、関西美術院では浅井忠らにデッサンを学んで、1907年(明治40)に安井曾太郎とともに渡仏。アカデミー・ジュリアンで修行します。帰国後の1914年(大正3)には二科会の創立メンバーになるなど洋画の世界で活躍し、後に洋画を離れ、文人画風ののびやかで滋味豊かな作品世界を展開していきました。

青楓は文豪夏目漱石に愛され、彼に絵を教えた画家であり、漱石らの本の装幀も数多く手がけました。また、写生にもとづく創造的な図案の試みや、随筆や画論など多岐にわたる文筆活動、それに良寛研究とその成果ともいえる書作品など、幅広い交流と旺盛な制作活動で知られています。しかし、さまざまな分野で足跡を残した青楓ですが、これまでまとまったかたちで作品やその生涯を紹介する回顧展は開催されていません。

青楓は、長生でもありました。青年時代には日露戦争に従軍し、203高地の激戦に居合わせ、その凄惨な体験を赤裸々に文芸雑誌『白樺』に発表しています。昭和初頭には、二科展に社会思想を背景とした作品を発表し、物議をかもしました。自由を求めて時代に対峙しつづけた青楓の作品は、その時代を知るための歴史資料としての側面も持ち合わせているでしょう。

本展では、交友のあった夏目漱石と経済学者河上肇、それに私淑する良寛和尚と、青楓がもっとも影響を受けた3人を軸にしながら、作品や関連資料約250点を通して、明治・大正・昭和の時代を生きた画家津田青楓の生涯を振り返ります。


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昨日、NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットで放映される「アートシーン」で取り上げられていました。

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漱石著書の装幀。

河上肇との交流から、左翼思想へ。しかし自らも逮捕・拘留され、転向を条件に釈放。

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その後は文人画へ。

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これまでに青楓の大規模展が無かったというのは、意外でした。確かに当方も、山梨県笛吹市の青楓美術館さん、同じく釈迦堂遺跡博物館さんでまとめて作品を拝見したことはありましたが、それ以外は、東京ステーションギャラリーさんでの「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」など、複数作家の作品を集めた展覧会で観た程度でした。

青楓と言えば、最初に書いた通り、パリで留学仲間として光太郎と交流がありました。明治42年(1909)、留学も最終段階となった光太郎は、スイス経由でイタリア旅行に出かけましたが、その行く先々で青楓に俳句入りの書簡をしたためています。現在確認できている光太郎の俳句のうち、かなりの数がこれです。

両者帰国後も交流は続きましたが、青楓が京都在住だったため、顔を合わす機会は減ったようです。また、青楓が漱石と近づき、一方の光太郎は漱石を敬遠していましたので、そのあたりも疎遠になった理由の一つかも知れません。

ところで青楓は、智恵子とも交流がありました。智恵子の言葉としてよく使われる「世の中の習慣なんて……」は、青楓が書き残したものです。

昭和23年(1948)に津田が書いた「漱石と十弟子」の一節で、なぜか智恵子は「美代子」という仮名になっています。

 午後から長沼美代子さんがくる。一緒に鬼子母神の方へ写生に出る。美代子さんは女子大の寄宿舎にゐる。学校を卒業したのやら、しないのやら知らない。ふだんに銘仙の派手な模様の着物をぞろりと着てゐる。その裾は下駄をはいた白い足に蓋ひかぶさるやうだ。それだけでも女子大の生徒と伍してゐれば異様に見られるのに、着物の裾からいつも真赤な長襦袢を一、二寸もちらつかせてゐるから、道を歩いてゐると人が振り返つて必ず見てゆく。しかもそろりそろりとお能がかりのやうに歩かれるのだから、たまらない。美代子さんの話ぶりは物静かで多くを言はない。時々因習に拘泥する人々を呪うやうに嘲笑する。自分は只驚く。彼女は真綿の中に爆弾をつつんで、ふところにしのばせてゐるんぢやないか。
 彼女は言つた。世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

具体的な年月日は記されていないのですが、この後の部分でやはり留学仲間の荻原守衛の死にふれていますので、おそらく明治43年(1910)のことと思われます。ということは、書かれたのが昭和23年(1948)ですから、40年近く経っての回想です。

さて、会期は残り僅かですが、青楓展、時間を見て行ってこようと思っております。レポートは後ほど。


【折々のことば・光太郎】

鉄腕ある者よ、出てくれ。
アンケート「アメリカ趣味の流入を防げ
――帝都復興に対する民間からの要求――」より
大正12年(1923) 光太郎41歳

「帝都復興」は、関東大震災で東京が壊滅状態におちいったことにかかわります。再建されるべき東京の街並みを、「質素で確かで優美な都」としたい、そのためにしっかりした方向性を示せる人物――鉄腕ある者――が出てきて欲しい、というのです。

新型コロナ問題、幸いに欧州各地のようなひどい事態にはなっていませんが、どうにも我が国では対応のちぐはぐさが目立ちます。だからと言って、信用のおけない人物に、わけのわからない「鉄腕」をふるわれても困るのですが……。