彼女の知らない空
2020年3月11日 早瀬耕著 小学館(小学館文庫) 定価680円+税
ぼくは、自分の正義を貫くことができるのか
憲法九条が改正され、自衛隊に交戦権が与えられて初めての冬。航空自衛隊佐官のぼくは、千歳基地に配属され、妻の智恵子と官舎で暮らしている。しかし、智恵子は全く知らない。ぼくが、一万二千キロ彼方のQ国の無人軍用機を遠隔操縦し、反政府組織を攻撃する任務に就いていることを。トリガーを引いたら、ぼくは自衛隊史で初めての殺人者になる。それでも智恵子は、いつものように優しい声で「おかえりなさい」と言ってくれるだろうか――(「彼女の知らない空」)
いつの間にか、私たちは戦争に加担している。
化粧品会社の新素材の軍事転用をめぐり、社員夫婦が抱えてしまった秘密(「思い過ごしの空」)、過重労働で心身を蝕まれていく会社員と老人の邂逅(「東京駅丸の内口、塹壕の中」)他、組織の中で生きる人々のジレンマを描いた7編。
ぼくは、あの日誓った正義を、貫くことができるのだろうか。
『未必のマクベス』著者が、今を生きる私たちの直面する危機について問いかける短編集。
〈 編集者からのおすすめ情報 〉
日々流れてくるニュースに希望が持てない時、働くことに疲れた時、組織の中で自分を無力に感じた時……。手に取っていただきたい1冊です。
目次
思い過ごしの空
彼女の知らない空
七時のニュース
閑話 | 北上する戦争は勝てない
東京駅丸の内口、塹壕の中
オフィーリアの隠蔽
彼女の時間
解説 瀧井朝世
七篇の短編を収めていますが、連作というわけではなく、しかし、別個の内容でもなく、それぞれがゆるやかに繋がっています。舞台は「憲法九条が改正され、自衛隊に交戦権が与えられた」日本。近未来というか、パラレルワールド的な世界というか、そんな感じです。
最初の「思い過ごしの空」で、1ページ目からいきなり光太郎。「智恵子抄」所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)がモチーフとして使われています。
主人公「ぼく」は大手化粧品会社の本社でスタッフ部門、妻は同じ会社の研究・開発部門に勤務しているという設定です。その妻が化粧品用に開発した技術が、軍事技術に転用できることが判明、実際にその技術がステルス爆撃機に使われていることを「ぼく」が知り、しかし、妻は知らない(実は知っていたのですが)という話の流れです。
二篇目にして表題作の「彼女の知らない空」。こちらは航空自衛隊員夫婦の話。夫の三佐は、「集団的自衛権」の行使により、中東の「Q国」の空を飛ぶ無人爆撃機(これに「思い過ごしの空」に出てきた技術が転用されています)を日本から遠隔操縦し、民間人も巻き込むと知りつつ反政府組織の拠点を空爆、それを妻は知らない(今度は本当に知りません)という設定です。妻の名が「智恵子」ですが、こちらでは光太郎の名や「智恵子抄」がらみの記述はありません。しかし、作者の早瀬氏、当然、「空」がらみで意識して付けたネーミングでしょう。
他に、過労死レベルを遙かに超えるサービス残業をアスリートのドーピングにたとえ(成果は上がるが、リスクも大きいということで)、心身をむしばまれていくキャリアウーマンやサラリーマン、そうした「戦い」からドロップアウトしたであろうホームレスの話などをはさみ、最終篇「彼女の時間」では、宇宙飛行士を目指しながら挫折したNSADA職員の話で終わります。ちょい役として最初の「思い過ごしの空」の夫婦が登場し、物語が連環しているわけです。
軍事とは最も遠い、という理由で化粧品会社を就職先に選んだのに、否応なしに自分の開発した技術が戦争に使われたり、何とかしてやらないで済む方法を模索しながらも、結局はミサイルのトリガーを弾かなければならなかったりといった登場人物たちの苦悩や葛藤などの心理描写が実に見事です。また、現実に起こりうる話でもあるというところに、恐ろしさを感じます。
そして、夫婦にまつわる話が多いのも特徴です。そこにはある種の極限状況に置かれても、お互いを気遣う優しさや、反面、相手を冷徹に観察する眼なども描かれ、考えさせられます。
暗い話ばかりではなく、シェイクスピアの「ハムレット」をモチーフに、ウィットに富んだ会話が交わされる「オフィーリアの隠蔽」などは、救いのある話でした。
ちなみに早瀬氏へのインタビューがネット上にアップされています。
ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
敬愛する詩人も、尊崇する詩人も尠くありません。
大正8年(1919) 光太郎37歳
光太郎、造型作家(特に同時代の)に対しては、実名を上げての手厳しい評を厭いませんでしたが、なぜか詩人に対してはそれがほとんど見られません。彫刻を本業と捉えていた矜恃がそうさせていたのかもしれません。