ちなみに五木氏、一昨年も同じ連載で光太郎に触れて下さっています。
今回取り上げられているのは、昭和15年(1940)に光太郎が作詞し、飯田信夫が作曲、徳山璉(たまき)の歌唱でヒットした「歩くうた」。
当時の日本放送協会が、「国民歌謡」というラジオ番組を放送しており、その中で流すために光太郎に作詞を依頼したものです。同番組のテキスト第76輯に楽譜が収められ、のち、東亜音楽出版から単独の楽譜も刊行されました。
歩くうた
あるけ。 あるけ。 あるけ。 あるけ。
南へ、 北へ、 あるけ。 あるけ。
東へ、 西へ、 あるけ。 あるけ。
路ある道も、 あるけ。 あるけ。
路なき道も。 あるけ。 あるけ。
あるけ。 あるけ。 あるけ。 あるけ。
目ざすは、 かなた、 あるけ。 あるけ。
けぶれる、 ゆく手、 あるけ。 あるけ。
果てなき、 野づら、 あるけ。 あるけ。
こごしき 磐根、 あるけ。 あるけ。
あるけ。 あるけ。 あるけ。 あるけ。
身をやく、 日照り、 あるけ。 あるけ。
塩ふく、 背中、 あるけ。 あるけ。
身を切る、 吹雪、 あるけ。 あるけ。
凍てつく、 目鼻、 あるけ。 あるけ。
あるけ。 あるけ。 あるけ。 あるけ。
思ひは、 高らか、 あるけ。 あるけ。
大地の、 きはみ、 あるけ。 あるけ。
海さへ、 空さへ、 あるけ。 あるけ。
吾等を、 とどめず。 あるけ。 あるけ。
当時は4番まである歌は珍しくなかったので、「あるけ」が計48回(笑)。詩としてはしつこいと感じたのでしょうか、のちに詩集『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)に収められた際、歌の3番部分をカットし、全三連に改訂しています。しかし、歌としての「歩くうた」は光太郎の意図とは関係なく、その後も全4番で歌い継がれています。
ビクターから徳山の歌によるレコードが2種発売され、それなりにヒットしました。徳山は「隣組」や「侍ニツポン」(西條八十作詞、松平信博作曲)なども歌っています。
また、歌のないインストゥルメンタルバージョン、合唱のみのバージョンも発売されています。
当方、徳山歌唱の2枚と、インストバージョンの計3枚を手に入れましたが、合唱のみのバージョンが未入手です。ただ、国立国会図書館さんのデジタルデータ「歴史的音源」の中に収録されていますので、聴いたことはありますが。
昭和7年(1932)生まれの五木寛之氏、戦時中、登下校の際に口ずさんだり、学校の授業の一環としての映画鑑賞(原節子さんも出演された「ハワイ・マレー沖海戦」だったそうですが)の際に映画館まで行進しながら皆でうたったりなさったそうです。
同様のご体験があったということを、故・髙村規氏や、故・金田和枝さんからも聴いたことがあります。
また、故・小沢昭一さんもおそらく似たようなご経験をお持ちのようで、平成20年(2008)リリースのCD「昭一爺さんの唄う 童謡・唱歌」の中で、「歩くうた」の解説として「当世、メタボばやりのようですので、歩いたらいいじゃありませんか」と語られています。
五木さんも「最近、歩くことがきわめて少なくなった。一日一万歩どころか、千歩、いや五百歩も歩ていないのではないかと思う。昔は本当によく歩いたものだった。」という書き出しで、「歩くうた」の紹介につなげられています。そして末尾では、編集者に「コロナ・ウィルスが大流行ですから、あまりウロウロされないほうがいいですよ。」と言われてしまったというオチ。笑えませんね(笑)。
ところで『週刊新潮』さん。3.11関連で、グラビアページは東日本大震災がらみの、「復興の桜」「復興と月」という特集を組んでいます。被災地の桜や月を田中和義氏の美しい写真で紹介するものです。
ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
靴は英吉利、サツマ下駄は太い丈夫な小倉の鼻緒。