昭和3年(1928)から翌年にかけ、心平が暮らした群馬県の地方紙『上毛新聞』さんの記事から。ちなみに記事にもありますが、心平は昭和4年(1929)に約半年間、上毛新聞社さんで校正部員として、月給28円で働いていました。そのかたわら、伊藤信吉や萩原恭次郎など群馬の詩人たち と交流、光太郎も寄稿した詩誌『学校』を発行したり、第一詩集『第百階級』(序文・光太郎)を出版したりしていました。
高崎高の校歌 60年以上前に制作の楽譜を吹奏楽部員が発見
伝統校の高崎高(群馬県高崎市八千代町)で、60年以上前の校歌制定時に作曲家、芥川也寸志(1925~89年)が直筆したとみられる楽譜や、作詞した前橋市ゆかりの詩人、草野心平(03~88年)の直筆とみられる原稿用紙に書かれた歌詞などの資料が見つかった。現在も歌い継がれている校歌で、校内で埋もれていたところ、生徒が偶然見つけた。同校は貴重な資料として、楽譜を額装して校内に展示する。
◎手紙や会議録も同封 曲への思いもつづる
昨年11月、吹奏楽部の練習終了後、音楽準備室で道具探しをしていた2年の菅家太一さん(17)と大橋弘典さん(17)が大量の資料の中から、ひもでとじられた厚紙を見つけた。
表紙に「創立60周年記念事業 新校歌制定資料」とあり、中には楽譜や、歌詞が書かれた原稿用紙が入っていた。校長に宛てて芥川が期日が遅れたことをわびる手紙、制定の経緯を記した会議録なども含まれていた。
「草野先生の立派な詩を頂いただいて仕合はせでした。時に荘厳に、時に元気溌剌(はつらつ)に、時にはまたロマンチックに、自由に歌い上げて」(芥川)、「伝統のある高崎高等学校の校歌ですので力を入れてつくりました。声高らかに歌っていただければ光栄です」(草野)などとする2人の思いもつづられていた。
菅家さんと大橋さんは発見時、「すぐに価値あるものと思った」と振り返る。
同校は1897年創立。1957年に制定された現在の校歌が3代目とされる。在職9年目の音楽担当、黒岩伸枝教諭は「楽譜は芥川さん専用の用紙で書かれていた。変ホ長調で作られ、斬新で躍動感がある校歌。直筆の楽譜を探していた」と発見を喜ぶ。加藤聡校長は「楽譜は学校の玄関に飾りたい」と話している。
芥川は作家、芥川龍之介の三男。草野は昭和初期、上毛新聞社に勤務したこともある。芥川、草野とも県内他校でも校歌を手掛けた実績がある。
2番の歌詞に赤城山が出てきますが、心平、群馬時代の昭和4年(1929)、光太郎や高田博厚、岡本潤らと共に赤城山に登っています。校歌の執筆は光太郎が亡くなった翌年の昭和32年(1957)だそうで、心平の脳裏にその時の思い出がよぎったかもしれません。
ちなみに心平は、やはりゆかりの地の川内中学校さんなど、各地の学校の校歌をかなり作詞していまして、故郷・いわき市の草野心平記念文学館さんでは、一昨年、ズバリ「草野心平の校歌」という企画展も開催しました。
光太郎は、というと、戦後になって依頼は山のようにあったのですが、結局、生涯に一篇も校歌は作詞しませんでした。自由に作れないというのもあったでしょうし、戦時中の翼賛活動への悔恨から蟄居生活を送っている最中ということで、遠慮したというのもあったように思われます。
ただ、校歌ではない団体歌的なものは、2篇だけ作っています。
まず、昭和17年(1942)、岩波書店の「店歌」として、「われら文化を」。作曲は信時潔でした。もう1曲は、「初夢まりつきうた」(昭和25年=1950)。こちらは正式な団体歌というわけではありませんし、詳しい経緯が不詳なのですが、おそらく花巻商工会議所からの依頼で作った、いわば「商店街の歌」的なものです。邦楽奏者・杵屋正邦により作曲されています。
故・北川太一先生から名跡を引き継ぎ、当方が編集発行しております『光太郎資料』という冊子にて、それぞれ詳しくご紹介しています。「われら文化を」に関しては、第48集(平成29年=2017)~第50集(平成30年=2018)で、「初夢まりつきうた」に関しては、この4月に発行予定の第53集で扱っています。ご入用の方はコメント欄からご一報下さい。
【折々のことば・光太郎】
山の生活を始めるのに私は人間として最低の線まで行つてそこから出発して見ようと思つていた。
やはり「最低の線」の生活をしている自分が、「校歌」という「ハレ」の歌を作るわけにはいかない、という思いがあったように思われます。