まずは今朝の『朝日新聞』さん。 

(天声人語)いちばんの寒波

冬という季節に力強さを見ようとするのが、高村光太郎の詩「冬が来た」である。〈きつぱりと冬が来た〉〈きりきりともみ込むやうな冬が来た〉。草木が枯れ、虫もいなくなる寒い季節を、詩人は両手を広げるように歓迎する▼〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。高村のように「冬が来た」と高らかにうたうには、遅すぎる時節ではある。日本列島はきのうになって、この冬いちばんの寒波に見舞われた▼「僕に来い」と待ちわびていたのは、雪不足のスキー場や雪まつりの会場だろう。伝統行事の「かまくら」を控える秋田県横手市では周辺から雪をかき集め、かまくらを何とかこしらえていた。それがようやく自前の雪で仕上げができるようになったという▼和歌山県串本町から届いた知らせは、雪や氷でなく「海霧(うみきり)である。この土地の冬の風物詩で、冷たい空気にさらされて海から霧がのぼる。島影が浮かび、幻想的な景色が生まれるという。今年は暖冬でふるわなかったが、きのうはきれいにたちのぼった▼汗ばむような日もあり、居心地の悪さすら感じていたこの冬である。そのせいだろうか、厳しい寒さがすこしうれしいような気にもなる。春はすぐそこだという心の余裕もあるのかもしれない。寒風のなか、紅梅がほころんでいるのを見かけた▼冒頭の詩で高村は、冬の鋭さを〈刃物のやうな〉とも表現した。刃こぼれをしているような感じがした今年の冬も、今ようやく研ぎ澄まされた。

002

光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)。この手の一面コラムでしばしば紹介されますが、おおむね11月から12月に取り上げられることがほとんどです。平成28年(2016)11月の『東奥日報』さん、平成30年(2018)12月の『河北新報』さん、昨年11月の『中国新聞』さんなど。

ところが、今年になって1月に『山陽新聞』さんがこの詩を取り上げ、「ずいぶん遅い『冬が来た』だなあ」と思っていたところ、今日になって『朝日』さん(笑)。たしかにこの冬の暖冬傾向は異常といえば異常でした。光太郎と違って寒さを苦手とする当方としては、過ごしやすくていいのですが(それでも先週末から昨日くらいまで風邪気味でした)。

ちなみに自宅兼事務所のある千葉県では、既に菜の花も咲き乱れています。北国の皆さん、すみません(笑)。

KIMG3588

もう1件。先月末の『高知新聞』さん。 光太郎の名は出ていませんが。

小社会 言い訳

 文豪には人間の弱さを抱え、失敗も絶えない人が多いようで、さまざまな言い訳を駆使した書簡が残っている。例えば、夏目漱石。友人あてのはがきに〈十銭で名画を得たり時鳥(ほととぎす)〉。

 中川越さん著「すごい言い訳!」によると、漱石はこの友人にあてた絵はがきに切手を貼り忘れた。切手代を取られた友に謝りつつ、自らが描いた「名画」を手に入れたとして感謝を強要したユーモアだという。漱石の絵は、といえば名画にはほど遠い素朴さだった。

 新聞連載の原稿執筆が遅れてしまった泉鏡花が、催促してくる編集者にあてた手紙もある。〈涼風たたば十四五回もさきを進めて其(そ)のうちに一日も早く御おおせのをと存じ…〉。

 簡単にいえば、締め切りを守れないのは暑くてかなわないからだと言っているだけ。ところが、苦しい釈明は美しく流麗な文体で書かれている。中川さんは「編集者は、この言い訳にも原稿料を支払いたくなったのでは」。

 この人の言い訳はどうだろう。国会で「桜を見る会」を巡る疑惑追及が続く。安倍首相は答弁で「歴代内閣も」「鳩山首相も」。追い詰められると「あの人だって」となるのは、どうも成熟した政治家の弁明とは思えない。

 国会はちゃんとした政策論争を、という声も出ている。ただ、「桜」は公文書の廃棄など民主主義の根幹に関わる問題だ。まずは美しい言い訳…ではなく誠実に説明責任を果たす方が先だろう。


昨年刊行され、光太郎も取り上げて下さった中川越氏著『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』を引き合いに、今国会を皮肉っています。ある意味痛快ですが、反面、「ないものねだり」というか、「高望み」というか……。末尾の「美しい」も「見苦しい」だろ、と突っ込みたくなります(笑)。あの人の辞書には、「冬が来た」にある「きっぱりと」という単語は載っていないのだと思います(笑)。

明日も新聞記事系から。


【折々のことば・光太郎】

私のからだの中には確かに手におへない五六頭の猛獣が巣喰つてゐる。此の猛獣のため私はどんなに苦んでゐるか知れない。私をしてどうしても世人に馴れしめず、社会組織の中に安住せしめず、絶えず原野を恋ひ、太洋を慕ひ、高峰にあこがれ、野蛮粗剛孤独不羈に傾かしめるのは此の猛獣共の仕業だ。私は人一倍人なつこく、温い言葉と春のやうな感情とに常に飢ゑてゐるのだが、この猛獣のおかげで然ういふ甘露の味を味ふ事が実にすくない。

散文「私の事」より 大正9年(1920) 光太郎38歳


001
光太郎、実は「春のやうな感情とに常に飢ゑて」いながら、それを得られず、「冬」を愛さざるを得なかったというわけですね。

大正13年(1924)には、前年の関東大震災によってあらわになった社会矛盾を痛烈に批判する連作詩「猛獣篇」の制作が始まります。光太郎の生前に単行詩集としてまとめられることはなかったのですが、没後、昭和37年(1962)になって、当会の祖・草野心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで刊行されました。