幕末・明治 偉人の書展
期 日 : 2020年2月12日(水)~2月18日(火)
会 場 : 小田急百貨店新宿店 本館10階 美術画廊・アートサロン
東京都新宿区西新宿1丁目1番3号
時 間 : 朝10時→夜8時 最終日は午後4時30分まで
料 金 : 無料
幕末・明治期にスポットを当て、墨蹟の中でも大変人気が高く入手困難な西郷隆盛をはじめ、いま話題の渋澤栄一や、激動の時代を駆け抜けた維新の志士たちの遺墨を一堂に展示販売いたします。
また、夏目漱石、樋口一葉など同時代の文士の書も併せて展覧いたします。
歴史上の偉人たちの人柄そのものといえる書の魅力を、より身近に感じていただける、またとない機会となります。
《出品予定作家》
西郷隆盛、徳川慶喜、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、福澤諭吉、伊藤博文、渋澤栄一、正岡子規、夏目漱石、樋口一葉、高村光太郎、与謝野晶子 他(順不同・敬称略)
問い合わせたところ、光太郎の作品は、明治39年(1906)、留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」をしたためた色紙(?)とのことでした。当会の祖・草野心平の鑑がついているそうです。
短歌自体は明治39年(1906)の作で、翌年元日発行の雑誌『明星』未歳第1号に掲載されましたが、この短歌、のちのちまで求められて揮毫した例が多く、この情報だけだといつ頃書かれたものかは不明です。
昭和4年(1929)9月1日発行の雑誌『キング』(大日本雄弁会講談社)第5巻第9号には、「ある日の日記(抄)」という文章が載っており(『高村光太郎全集』には漏れていたものです)、この短歌に関し、次のように述べています。
某社の依頼により自作短歌の中より五十首を選む。二十年来詠みすてし短歌の数はかなりの量に上るべきなれど、その都度書きとめもせざれば多く忘れ果てたり。記憶に存するものの中(うち)稍収録に堪ふと認むるものをともかくも五十首だけ書きつく。
海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
といふ単純幼稚なる感慨歌は一九〇七年渡米の際、太平洋上の暴風雨中に作りし歌なれば完全に二十年前のものなり。此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屢〻揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。
「一九〇七」とあるのは光太郎の記憶違いです。「某社」は改造社。この月発行された『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に関わります。同書には「海にして…」を筆頭に、明治末から大正13年(1924)までの短歌44首と、簡略な自伝が掲載されています。
「此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屢〻揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」そう言ってしまったら、身も蓋もないような気がしますが(笑)、実際、この歌の揮毫は多数現存します。当方も短冊を一点持っています(右画像)。
『明星』での発表形、初句は「海にして」ではなく「海を観て」となっていました。当方の短冊もそうなっています(ひらがなで「みて」ですが)。それが明治43年(1910)の雑誌『創作』に再録された際には「海にして」と改められており、明治42年(1909)に留学から帰国した後、改訂するまでの間の揮毫と思われます。光太郎の父・光雲の弟子であった故・小林三郎氏の旧蔵で小林氏のご息女(この方も亡くなっています)からいただきました。
ちなみにこちらが光太郎が乗り、船上でこの短歌を詠んだアセニアン。香港~バンクーバーをつないでいた貨客船で、光太郎は横浜から乗船しました。スペルは「ATHENIAN」。光太郎の書いたものでは「アゼニヤン」となっていますが、現在では「アセニアン」と表記するのが一般的なようです。総排水量3,882トン、外洋を航海する船としては、小さなものでした。
さて、小田急百貨店さんの「幕末・明治 偉人の書展」。光太郎以外にも、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の書なども展示されます。ご都合の付く方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
人間が一番求めてゐる事は清らかな美であつて、さまざまな望みが満たされた上にも、結局は此処に来るのだと思ふ。
大正8年(1919) 光太郎37歳