昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した「高村光太郎文学碑」を建立、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連で、『朝日新聞』さんの宮城版報道です。
活動しているのは「女川1000年後のいのちを守る会」。小学6年生の時に震災を経験した女川中学校の卒業生を中心に作られ、「いのちの石碑」や防災本「いのちの教科書」などの作成を進めてきた。寄付金でつくった石碑はこれまでに17基が完成している。
活動に加わった経緯について、阿部由季さん(21)は「家をなくしたのに他人の心配ばかりをしている友人を見て、私も周りのために何かできないかと思った」と振り返った。
石碑には中学校時代に生徒たちが詠んだ句が刻まれ、「津波が到達した地点なので、絶対に移動させないで下さい」との一文もある。阿部さんは「女川では昔の震災でも石碑が建てられていたが、工事のためにずらされてしまったことがあった」と説明した。
報告会に訪れた人からは「なぜここまで大きな取り組みができたのか」との質問が出た。「金魚も大きな水槽で飼えば大きく育つ。広い心で見守ってくれた周りの環境が育ててくれたと思う」と、メンバーで大学生の渡辺滉大さん(21)。「防災が『空気』のように当たり前の存在になってほしい」と答えた。
報告会に参加した「野蒜(のびる)まちづくり協議会」(東松島市)の菅原節郎会長(69)は「つらい過去と向き合うだけでも負担なのに、彼らは未来の命まで救おうとしている。地元の人たちにも彼らの活動を広めたい」と話した。
21基目の完成日が決まったことについて、メンバーで大学生の鈴木智博さん(20)は「『やっと終わって良かったね』と言われることもあるが、これはゴールでなくスタート。次の災害で本当に命が救われるように、何年かかるかわからないが、活動を続けていきたい」と語った。(山本逸生)
1基目が建立されたのが、平成25年(2013)。それから7年間かけて、いよいよ最後の碑が建てられるというわけです。頭が下がります。
元々、かつて女川港近くの公園にあった光太郎文学碑が、「100円募金」で建てられたことに倣い、当時中学生だった若者たちが募金を呼び掛けて、資金を集めました。
宮城)「女川いのちの石碑」 11月に21基目披露へ
宮城県女川町内にある21の浜に東日本大震災時の津波到達点の目印となる「いのちの石碑」を建てる活動などをしている団体が19日、同町高白浜の石碑近くで、これまでの取り組みの報告会を開いた。女川小・中学校内に建てられる21基目の石碑の披露式を11月22日に開くことも明らかにした。活動しているのは「女川1000年後のいのちを守る会」。小学6年生の時に震災を経験した女川中学校の卒業生を中心に作られ、「いのちの石碑」や防災本「いのちの教科書」などの作成を進めてきた。寄付金でつくった石碑はこれまでに17基が完成している。
活動に加わった経緯について、阿部由季さん(21)は「家をなくしたのに他人の心配ばかりをしている友人を見て、私も周りのために何かできないかと思った」と振り返った。
石碑には中学校時代に生徒たちが詠んだ句が刻まれ、「津波が到達した地点なので、絶対に移動させないで下さい」との一文もある。阿部さんは「女川では昔の震災でも石碑が建てられていたが、工事のためにずらされてしまったことがあった」と説明した。
報告会に訪れた人からは「なぜここまで大きな取り組みができたのか」との質問が出た。「金魚も大きな水槽で飼えば大きく育つ。広い心で見守ってくれた周りの環境が育ててくれたと思う」と、メンバーで大学生の渡辺滉大さん(21)。「防災が『空気』のように当たり前の存在になってほしい」と答えた。
報告会に参加した「野蒜(のびる)まちづくり協議会」(東松島市)の菅原節郎会長(69)は「つらい過去と向き合うだけでも負担なのに、彼らは未来の命まで救おうとしている。地元の人たちにも彼らの活動を広めたい」と話した。
21基目の完成日が決まったことについて、メンバーで大学生の鈴木智博さん(20)は「『やっと終わって良かったね』と言われることもあるが、これはゴールでなくスタート。次の災害で本当に命が救われるように、何年かかるかわからないが、活動を続けていきたい」と語った。(山本逸生)
1基目が建立されたのが、平成25年(2013)。それから7年間かけて、いよいよ最後の碑が建てられるというわけです。頭が下がります。
元々、かつて女川港近くの公園にあった光太郎文学碑が、「100円募金」で建てられたことに倣い、当時中学生だった若者たちが募金を呼び掛けて、資金を集めました。
光太郎や、文学碑の建立に奔走した女川光太郎の会事務局長であらせられ、あの日、津波に呑み込まれて亡くなった貝(佐々木)廣氏も、泉下で目を細めているのでは、と思います。
津波による辛い体験をそれぞれが経たあと、その逆境をバネに、こうした素晴らしい活動を成し遂げつつある彼らに幸あれと、祈念せざるを得ませんね。
続報が出ましたら、またご紹介します。
【折々のことば・光太郎】
日本へ帰つて来たら矢張り日本の料理が好い。
談話筆記「画室にて」より 明治45年(1912) 光太郎30歳