当会顧問・北川太一先生が亡くなる前からそういう予定だったもので、19日(日)、20日(月)と、一泊で花巻に行っておりました。レポートいたします。
今年はあちこちで雪が少ないという報道には接していましたが、まさにそうでした。例年ですとこの時期、新幹線で仙台を過ぎると銀世界となるという感じですが、今回はまるで春先のような風景が広がっていました。
左は奥州市付近を通過中の車窓から。右は新花巻駅のホームから。その分、レンタカーの運転は楽でしたが。
まずレンタカーを向けましたのは、花巻市総合文化財センターさん。市内5つの文化施設が「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」を統一テーマに行っている企画展示のうち、「ぶどう作りにかけた人々」を開催中で、光太郎に関わる展示もしてくださっています。
総合文化財センターさんのある大迫地区では、戦後、ぶどう作りに取り組み、現在でもエーデルワインさんというワイナリーがあります。その推進に一役買ったのが、昭和22年(1947)から知事を務めた国分謙吉。国分は昭和25年(1950)に光太郎と対談をしたこともあり、その対談の中でもぶどう作り、ワインについて言及していました。そのあたりを展示では紹介してくださっています。
また、この地で実際にぶどう栽培等にあたった高橋繁造旧蔵の、光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)書も展示されています。ただし印刷で、同年、盛岡で開催された岩手県開拓5周年記念の開拓祭で配付されたものです。しかし印刷ではありますが、精巧な作りで自筆と見まごうもの。平成21年(2009)には、テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に、同じものが出ました。依頼人は亡父の遺品で、光太郎自筆のものかと思っていたそうですが、残念ながら印刷ということで¥10,000ほどの鑑定。それでも現存数は多いものではなく、当方、入手したいと思いつつ果たせていないものです。
こちらは2月2日(日)までの開催です。
続いて、花巻高村光太郎記念館さんにレンタカーを向けました。こちらも例年より少ない積雪。この時期、1メートル以上積もっていることも珍しくないのですが。
こちらでは、やはり「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環で、「光太郎からの手紙」が開催中です。
同館所蔵の光太郎書簡のうち、初代花巻高村光太郎記念会理事長・佐藤隆房夫妻に宛てたものが中心でした。
中には『高村光太郎全集』未収録の、現在確認されている中では最後の光太郎書簡も。先月『朝日新聞』さんがこれについて言及してくださいました。
光太郎が歿する6日前、昭和31年(1956)3月27日のもので、この日は自分でペンを取ることが出来ず、世話になっていた中野の貸しアトリエの大家さんであった、中西富江に代筆して貰っています。
また、昨年、その寄贈が報道された、当時中学生だった横浜在住の女性にあてた葉書。
どの手紙も、内容的にもさることながら、味わい深い光太郎の筆跡。書の揮毫ほどに力をこめてはいないのですが、その肩の力が抜けた具合、実に絶妙です。
さらに、昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で1日だけ開催された智恵子切抜絵展の際に発行された冊子も。表紙は、画家の夏目利政の手になる智恵子の肖像。夏目は明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が下宿していた家の息子でした。
このあたり、亡くなった北川太一先生にも見ていただきたかった、と思いつつ拝見しました。
すると、隣の常設展示室から、北川先生のお声が。「ああ、そうだった」と、思い出しました。
すっかり失念していましたが、平成25年(2013)、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の折に、各会場で流したビデオをこちらでも放映させてもらっていまして、その中に北川先生がご登場されていたのでした。
ちなみに同じビデオには、平成26年(2014)に亡くなった、光太郎令甥・髙村規氏もご出演。そう考えると、このビデオ、今となってはお二人を偲ぶよすがとしても貴重なものとなりました。
その後、隣接する光太郎の山小屋(高村山荘)へ。やはりこの時期としては異例の雪の少なさです。例年ですと、積雪のためこの小屋に近づくことが出来ません。
久しぶりに中にも入れていただきました。
雪は少ないとはいえ、冷蔵庫のような寒さでした。改めてここで厳しい生活を送った光太郎に思いを馳せました。
こちらを後に、宿泊先の大沢温泉さんへ。
かつて定宿としていた菊水館さんは、一昨年の台風による道の崩落のため、いまだ休業中。今回も自炊部さんでした。
障子を開けると、その菊水館さん。
ゆっくり温泉に浸かり、このところのいろいろあった中での疲れを癒しました。夕食は自炊部さん併設の食堂で摂りました。
本来、自炊部ですので、湯治客用の調理場もあります。下記はガスの自販機的な。いい感じですね。
当方、使ったことはありませんが。
その晩は、雪でした。翌朝、目覚めると……
今年はあちこちで雪が少ないという報道には接していましたが、まさにそうでした。例年ですとこの時期、新幹線で仙台を過ぎると銀世界となるという感じですが、今回はまるで春先のような風景が広がっていました。
左は奥州市付近を通過中の車窓から。右は新花巻駅のホームから。その分、レンタカーの運転は楽でしたが。
まずレンタカーを向けましたのは、花巻市総合文化財センターさん。市内5つの文化施設が「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」を統一テーマに行っている企画展示のうち、「ぶどう作りにかけた人々」を開催中で、光太郎に関わる展示もしてくださっています。
総合文化財センターさんのある大迫地区では、戦後、ぶどう作りに取り組み、現在でもエーデルワインさんというワイナリーがあります。その推進に一役買ったのが、昭和22年(1947)から知事を務めた国分謙吉。国分は昭和25年(1950)に光太郎と対談をしたこともあり、その対談の中でもぶどう作り、ワインについて言及していました。そのあたりを展示では紹介してくださっています。
また、この地で実際にぶどう栽培等にあたった高橋繁造旧蔵の、光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)書も展示されています。ただし印刷で、同年、盛岡で開催された岩手県開拓5周年記念の開拓祭で配付されたものです。しかし印刷ではありますが、精巧な作りで自筆と見まごうもの。平成21年(2009)には、テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に、同じものが出ました。依頼人は亡父の遺品で、光太郎自筆のものかと思っていたそうですが、残念ながら印刷ということで¥10,000ほどの鑑定。それでも現存数は多いものではなく、当方、入手したいと思いつつ果たせていないものです。
こちらは2月2日(日)までの開催です。
続いて、花巻高村光太郎記念館さんにレンタカーを向けました。こちらも例年より少ない積雪。この時期、1メートル以上積もっていることも珍しくないのですが。
こちらでは、やはり「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環で、「光太郎からの手紙」が開催中です。
同館所蔵の光太郎書簡のうち、初代花巻高村光太郎記念会理事長・佐藤隆房夫妻に宛てたものが中心でした。
中には『高村光太郎全集』未収録の、現在確認されている中では最後の光太郎書簡も。先月『朝日新聞』さんがこれについて言及してくださいました。
光太郎が歿する6日前、昭和31年(1956)3月27日のもので、この日は自分でペンを取ることが出来ず、世話になっていた中野の貸しアトリエの大家さんであった、中西富江に代筆して貰っています。
また、昨年、その寄贈が報道された、当時中学生だった横浜在住の女性にあてた葉書。
どの手紙も、内容的にもさることながら、味わい深い光太郎の筆跡。書の揮毫ほどに力をこめてはいないのですが、その肩の力が抜けた具合、実に絶妙です。
さらに、昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で1日だけ開催された智恵子切抜絵展の際に発行された冊子も。表紙は、画家の夏目利政の手になる智恵子の肖像。夏目は明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が下宿していた家の息子でした。
このあたり、亡くなった北川太一先生にも見ていただきたかった、と思いつつ拝見しました。
すると、隣の常設展示室から、北川先生のお声が。「ああ、そうだった」と、思い出しました。
すっかり失念していましたが、平成25年(2013)、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の折に、各会場で流したビデオをこちらでも放映させてもらっていまして、その中に北川先生がご登場されていたのでした。
ちなみに同じビデオには、平成26年(2014)に亡くなった、光太郎令甥・髙村規氏もご出演。そう考えると、このビデオ、今となってはお二人を偲ぶよすがとしても貴重なものとなりました。
その後、隣接する光太郎の山小屋(高村山荘)へ。やはりこの時期としては異例の雪の少なさです。例年ですと、積雪のためこの小屋に近づくことが出来ません。
久しぶりに中にも入れていただきました。
雪は少ないとはいえ、冷蔵庫のような寒さでした。改めてここで厳しい生活を送った光太郎に思いを馳せました。
こちらを後に、宿泊先の大沢温泉さんへ。
かつて定宿としていた菊水館さんは、一昨年の台風による道の崩落のため、いまだ休業中。今回も自炊部さんでした。
障子を開けると、その菊水館さん。
ゆっくり温泉に浸かり、このところのいろいろあった中での疲れを癒しました。夕食は自炊部さん併設の食堂で摂りました。
本来、自炊部ですので、湯治客用の調理場もあります。下記はガスの自販機的な。いい感じですね。
当方、使ったことはありませんが。
その晩は、雪でした。翌朝、目覚めると……
やはりこうでなくては駄目ですね(笑)。ただし、朝の時点では雪というより霙(みぞれ)でした。
上の方に書き忘れましたが、花巻高村光太郎記念館さんでの「光太郎からの手紙」は、1月27日(月)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
日本語の質を緻密にさせてゐる点でも大いに教はるところがあります。
散文「中村草田男句集『火の島』に寄せる」より
昭和15年(1940) 光太郎58歳
昭和15年(1940) 光太郎58歳
中村は明治34年(1901)生まれの俳人。
「言葉」の使い方に、実に神経を配っていた光太郎。同じような人々にはこうして共感を示していました。