まず大事な連絡を。北川太一先生お通夜/葬儀の日程等決まりました。

お通夜 2020年1月16日(木) 18:00~  ご葬儀 同1月17日(金) 11:00~
会場はともに文京区向丘2-17-4の、浄心寺さんです。こちらのお寺、「さくらホール」という葬祭場を併設なさっていますが、そちらではなく、本堂で執り行うとのことでした。公共交通機関ですと、東京メトロ南北線・本駒込駅、あるいは都営三田線・白山駅からそれぞれ徒歩5分ほどのところ。先生が永らく教壇に立たれていた都立向丘高校さんの近くです。

生花の受付は、フリーダイヤル0120-621-192。葬儀社の東京福祉会さんです。こちらに電話し、FAXを受け取り、必要事項を記入して返信するという手はずになります。花輪はなく生花のみ、16,500円で、のちほど振り込みだそうです。FAXの無い方、とりあえず電話してみて下さい。


昨日、朝一番で1月12日(日)に亡くなられた当会顧問・北川太一先生のお宅に行って参りました。

東京メトロ千代田線千駄木駅で下り、光太郎旧居跡のある団子坂方面とは逆に、不忍通りを根津方面へ。何度も通い慣れた道ですが、こんな気持でここを歩くとは、と思いながら歩を進めました。

主亡きお宅。かつては先生の盟友だった故・吉本隆明氏が、刑事の尾行をまくために立ち寄ったりもされたそうです。玄関先には「高村光太郎記念会」の看板も。

午後からは葬儀社さんや、葬儀委員長的なことをなさって下さるという、先生のかつての教え子の北斗会の方がいらっしゃるということでしたが、当方が伺った9時頃にはご家族だけでした。奥様で、昭和30年(1955)には結婚のご報告に、北川先生ともども光太郎のもとを訪ねられたこともある節子様、子息の光彦氏(「光」の字は光太郎にちなみます)、よく連翹忌の受付や資料の袋詰めなどを手伝って下さった、おじいちゃん子だったお孫さん。そこにあるべき先生のお姿が無いことが、不思議に思えるような……。「あれ、先生、二階の書庫にでもいらっしゃるんですか」と問いたくなるような……。

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居間兼応接室の、いつも、この椅子に座られて、当方が伺うとにこにこしながら出迎えて下さった北川先生……。ちなみに写っている絵は、平成23年(2011)、東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった、宮城県女川町の女川光太郎の会事務局長であらせられた故・貝(佐々木)廣氏の筆になる先生の肖像画です。

「会ってやって下さい」とのことで、隣室にてご尊顔を拝見させていただきました。安らかなお顔でした。お顔を目にしてしまうと……駄目ですね……。滂沱禁じ得ませんでした……。

亡くなった日のご様子を伺いました。朝、普通に目覚められ、朝食のため居間の椅子にお座りになったところで意識を失われ、テーブルに突っ伏されたそうです。食事をされながら、調べものでもするおつもりだったのか、何かのご本を手にされていたとのことでした。いかにも先生らしい、と思いました。

救急車で、近くにあるかかりつけの日本医大病院さんに搬送。以前も硬膜下出血でそういうことがあって、しかし、その時は溜まった血を抜いたらすぐに恢復なさったため、ご家族の皆さんは今回も、と思ったそうです。しかし、お医者様の診断は無情にも、心臓の大動脈乖離で、手の施しようが無い、的な……。

結局、その後、お話をなさることは出来なかったそうですが、ご家族が手を握られると握り返されたとのことで、意識は朦朧とされつつも、ある程度わかっていたのではないか、と、光彦氏の弁。この日は日曜でしたので、奥様はじめ、お子さん、お孫さんもお集まりになり、皆さんに看取られて、午後11時20分、先生は天然の素中に還られたそうです。「長く苦しむ事もなく、みんなに看取られて逝ったのは、幸いだったと思うべきでしょうかね」とは、奥様のお話でした。

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その後、上記お通夜やご葬儀の日程等をお聞きし、「遺影をどれにしようか迷ってるんですよ」とおっしゃるので、いくつかの候補の中から「やっぱり、これがいいんじゃないですか」と、当方。普段着で(この上っ張り姿で、この居間で行われたテレビ番組のロケにも臨まれました)、いつもどおりのにこやかな。当方にとっての北川先生は、まさにこういう方です。

おいとまを告げ、電車と高速バスを乗り継いで千葉の自宅兼事務所に帰る間、今月開設したフェイスブックにスマホで情報を上げ(こんなことのために始めたんじゃないんだけどな、と思いつつ)、片っ端から関係の方々の携帯にメールを送り、電話やPCのメールでなければ伝えられない方には帰ってから伝え、しかし、そうして何かやっていないと落ち着かないような、昨日はそんな一日でした。メールの返信等で、そんな当方を気遣って下さった皆様、恐縮です。この場を借りて御礼申し上げます。

17日のご葬儀では、しっかりと、先生をお送りしたく存じます。


【折々のことば・光太郎】

よみ返して今更この敬虔無垢な詩人を敬愛する情を強めました。かういふ詩人の早世を実に残念に思ひます。御近親の方々のお心も想像いたされます。

散文「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

八木はこの前年、数え30歳で亡くなっています。北川先生は、おん年94。世間的には「大往生」「天寿」といわれるお年でしたが、早世であれ、大往生であれ、残された者の悲しみには共通するものがあるわけで……。