とうとうこの日がやって来てしまったか、という感じです。いずれこの日が来ることを覚悟してはおりましたが、いざ、そうなると、なぜこんな日が来るんだ、と、やり場のない怒りと、虚脱感……。
当会顧問にして、光太郎顕彰の第一人者、北川太一先生が、1月12日(日)、午後11時20分、大動脈乖離のため、亡くなられました。
先生は、大正14年(1925)、東京日本橋のお生まれ。おん年94歳でした。3月がお誕生日でしたので、今年、95歳になられるはずでした。ちなみに「昭和」の年号が、そのまま先生の満年齢になります。昭和元年に満1歳、同20年には20歳、というわけです。今年は換算すれば昭和95年です。
昭和12年(1937)に尋常小学校を卒業後、東京府立化学工業学校に入学され、旧制中学の課程を学ばれた北川先生、その後、同17年(1942)には、東京物理学校(現・東京理科大学)に進まれ、その頃から理系でありながら詩歌にも親しまれていたそうです。
同19年(1944)、物理学校を戦時非常措置で繰り上げ卒業。海軍省より海軍技術見習士官に任官され、静岡へ。翌20年(1945)には松山海軍航空隊宇和島分遣隊に転属、海軍少尉となられました。結局、四国の山中で、ご自分よりも若い予科練の少年たちと共に塹壕を掘りながら敗戦を迎え、復員。
同21年(1946)、東京工業大学に再入学。一学年上には吉本隆明が居ました。同23年(1948)から、東京都立向丘高校定時制教諭となられ、以後、同60年(1985)まで教員生活を送られました。ご自身の東京工業大学卒業は同24年(1949)。最初の頃は大学生と高校教諭の掛け持ちということで、それが可能だった時代だったのですね。
「智恵子抄」は戦時中に既に読まれ、さらに戦後には雑誌『展望』に載った、光太郎が半生を振り返った連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)を目にされ、「あの戦争はいったい何だったのか」という思いに駆られ、同じく光太郎に注目していた吉本と議論したりなさったそうです。
昭和27年(1952)、光太郎が岩手花巻郊外太田村から、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京すると、早速、中野のアトリエを体当たり的にご訪問、光太郎の生き様を通し、「あの戦争はいったい何だったのか」という命題に向き合われました。たびたび訪問するうちにすっかり光太郎に魅せられた北川先生、光太郎の来し方についてインタビューをなさいました。それが昭和30年(1955)の初夏から、光太郎が亡くなった同31年(1956)の光太郎誕生日、3月13日まで。概ね月1回のペースで為されたその対話は、「高村光太郎聞き書き」として、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻に、二段組み40ページ超で掲載されています。
光太郎没後は、高校教諭のかたわら、同じく光太郎に私淑していた草野心平らと共に、光太郎の業績を後の世に残すことに腐心され続けました。それが連翹忌となり、『高村光太郎全集』となり、『高村光太郎書』(二玄社)となり、『高村光太郎造型』(春秋社)となり、『高村光太郎全詩稿』(二玄社)となり、『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』(新潮社)となり……これを挙げだしたらきりがありません。
先生はよくおっしゃっていました。「どんなに優れた芸術家でも、後の世の人々が、その業績の価値を正しく理解し、次の世代へと引き継ぐ努力をしなければ、たちまち歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」と。まさしく光太郎という偉大な芸術家の業績を、次の世代へと引き継ぐ、その一点を追い続けられたわけです。
また、こんなこともよくおっしゃっていました。「僕は、単なる光太郎ファンだから」。分類すれば、「文芸評論家」「近代文学研究者」などといったカテゴリに入るそのお仕事でしたが、そのように称されることを嫌っておいででした。それは「謙遜」や「韜晦」といったことではなく、逆に先生の「矜恃」の表れだったように思います。エラい評論家のセインセイたちが、自分のことは棚に上げ、対象を批判することに躍起になっている「論文」などには価値をあまり見出さず、逆にそういう輩と一緒にされてはたまらん、というお気持ちの表れだったように思われます。
そこで、我々次世代の者には「とにかく光太郎本人の書き残したものをよくお読みなさい。そこに答えが書いてある」と、おっしゃっていた先生。「研究」よりも「顕彰」なのだというスタンスでした。「とことん対象に惚れ込むことが大切です」とも。それは、学術的な部分では奨励される態度ではないのでしょう。しかし、先生にとっては、「学術」なんぞ糞食らえ、だったのではないでしょうか。
しかし、「贔屓の引き倒し」のような、妄信的、狂信的なところは一切無く、常に公平公正、たとえ惚れ込んだ光太郎であっても、非なる点は非なり、というお考えでした。そうしたバランス感覚があってこそ、我々は先生を尊敬し続けていたと言えます。
当方、先生とのお付き合いはそう長いわけではありません。ご著書を通じては、学生だった40年近く前から存じていましたが、直接の関わりを持たせていただいたのは、'90年代半ば頃からです。光太郎に関し、どうにもわからない疑問が生じ(今にして思えば初歩的なことでしたが)、ご著書の奥付に書かれていた千駄木のご住所に手紙を送って質問させていただきました。すると、ほどなく懇切ご丁寧な返信が。その後、やはり先生が顧問を務められていた高村光太郎研究会にお誘い下さり、その席上で始めてお会いした次第です。それから連翹忌にも参加させていただき、何度も千駄木のお宅にお邪魔したりもしました(上記写真は千駄木のお宅でのショットです)。
平成10年(1998)以後、先生のご編集になった増補版の『高村光太郎全集』が完結した後、それに洩れていた光太郎作品を見つけ、先生の元にコピーをお送りすると、「すごいものを見つけましたね」と賞めて下さり、それが嬉しくてさらに未知の作品発掘に力を注ぐようになり、光太郎没後50年の節目となった平成18年(2006)には、それらをまとめて『光太郎遺珠』として、先生との共同編集という形で世に出させていただきました。'90年代にはインターネットが普及し、情報収集がしやすくなったので、未知の作品発掘もそれほど大仰なことではありません。インターネットはおろか、コピー機さえもなかった時代に、公共図書館などで光太郎作品を発掘し、ご自分の手で筆写し、『全集』にまとめられた先生のご苦労を思えば、頭が下がります。
そして、光太郎忌日の連翹忌。光太郎の歿した翌年の第1回連翹忌から、昨年の第63回まで、一度だけ、インフルエンザか何かでお休みされたことがおありだそうですが、それ以外は欠かさずご参加。第50回までは運営のご中心でした。
その間に、先生と共に連翹忌を立ち上げた佐藤春夫、草野心平、高田博厚、伊藤信吉、髙村豊周らが次々鬼籍に入り、今また先生も、光太郎の元へと旅立たれてしまいました……。
そういうわけで、今年初めて、先生のいらっしゃらない連翹忌を運営することとなります。そのご遺志を引き継ぎ、光太郎の、そして先生の業績も、次の世代へと語り継いでいく所存です。しかしながら、微力な当方には、皆様のお力添えがなければそれが果たせません。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
そして、あらためまして、先生のご冥福をお祈り申し上げると共に、今までのご労苦に対し、衷心より感謝の意を申し上げます。ありがとうございました。そして、安らかにお眠り下さい。
本日、朝一番でお宅に伺います。通夜、葬儀等の情報が入りましたら、当方フェイスブックにアップしますので、そちらをご覧下さい。
追記 北川先生お通夜16 日(木)18 時、葬儀17 日(金)11時、それぞれ文京区向丘2-17 -6浄心寺さんで行われることと相成りました。
当会顧問にして、光太郎顕彰の第一人者、北川太一先生が、1月12日(日)、午後11時20分、大動脈乖離のため、亡くなられました。
先生は、大正14年(1925)、東京日本橋のお生まれ。おん年94歳でした。3月がお誕生日でしたので、今年、95歳になられるはずでした。ちなみに「昭和」の年号が、そのまま先生の満年齢になります。昭和元年に満1歳、同20年には20歳、というわけです。今年は換算すれば昭和95年です。
昭和12年(1937)に尋常小学校を卒業後、東京府立化学工業学校に入学され、旧制中学の課程を学ばれた北川先生、その後、同17年(1942)には、東京物理学校(現・東京理科大学)に進まれ、その頃から理系でありながら詩歌にも親しまれていたそうです。
同19年(1944)、物理学校を戦時非常措置で繰り上げ卒業。海軍省より海軍技術見習士官に任官され、静岡へ。翌20年(1945)には松山海軍航空隊宇和島分遣隊に転属、海軍少尉となられました。結局、四国の山中で、ご自分よりも若い予科練の少年たちと共に塹壕を掘りながら敗戦を迎え、復員。
同21年(1946)、東京工業大学に再入学。一学年上には吉本隆明が居ました。同23年(1948)から、東京都立向丘高校定時制教諭となられ、以後、同60年(1985)まで教員生活を送られました。ご自身の東京工業大学卒業は同24年(1949)。最初の頃は大学生と高校教諭の掛け持ちということで、それが可能だった時代だったのですね。
「智恵子抄」は戦時中に既に読まれ、さらに戦後には雑誌『展望』に載った、光太郎が半生を振り返った連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)を目にされ、「あの戦争はいったい何だったのか」という思いに駆られ、同じく光太郎に注目していた吉本と議論したりなさったそうです。
昭和27年(1952)、光太郎が岩手花巻郊外太田村から、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京すると、早速、中野のアトリエを体当たり的にご訪問、光太郎の生き様を通し、「あの戦争はいったい何だったのか」という命題に向き合われました。たびたび訪問するうちにすっかり光太郎に魅せられた北川先生、光太郎の来し方についてインタビューをなさいました。それが昭和30年(1955)の初夏から、光太郎が亡くなった同31年(1956)の光太郎誕生日、3月13日まで。概ね月1回のペースで為されたその対話は、「高村光太郎聞き書き」として、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻に、二段組み40ページ超で掲載されています。
光太郎没後は、高校教諭のかたわら、同じく光太郎に私淑していた草野心平らと共に、光太郎の業績を後の世に残すことに腐心され続けました。それが連翹忌となり、『高村光太郎全集』となり、『高村光太郎書』(二玄社)となり、『高村光太郎造型』(春秋社)となり、『高村光太郎全詩稿』(二玄社)となり、『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』(新潮社)となり……これを挙げだしたらきりがありません。
先生はよくおっしゃっていました。「どんなに優れた芸術家でも、後の世の人々が、その業績の価値を正しく理解し、次の世代へと引き継ぐ努力をしなければ、たちまち歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」と。まさしく光太郎という偉大な芸術家の業績を、次の世代へと引き継ぐ、その一点を追い続けられたわけです。
また、こんなこともよくおっしゃっていました。「僕は、単なる光太郎ファンだから」。分類すれば、「文芸評論家」「近代文学研究者」などといったカテゴリに入るそのお仕事でしたが、そのように称されることを嫌っておいででした。それは「謙遜」や「韜晦」といったことではなく、逆に先生の「矜恃」の表れだったように思います。エラい評論家のセインセイたちが、自分のことは棚に上げ、対象を批判することに躍起になっている「論文」などには価値をあまり見出さず、逆にそういう輩と一緒にされてはたまらん、というお気持ちの表れだったように思われます。
そこで、我々次世代の者には「とにかく光太郎本人の書き残したものをよくお読みなさい。そこに答えが書いてある」と、おっしゃっていた先生。「研究」よりも「顕彰」なのだというスタンスでした。「とことん対象に惚れ込むことが大切です」とも。それは、学術的な部分では奨励される態度ではないのでしょう。しかし、先生にとっては、「学術」なんぞ糞食らえ、だったのではないでしょうか。
しかし、「贔屓の引き倒し」のような、妄信的、狂信的なところは一切無く、常に公平公正、たとえ惚れ込んだ光太郎であっても、非なる点は非なり、というお考えでした。そうしたバランス感覚があってこそ、我々は先生を尊敬し続けていたと言えます。
当方、先生とのお付き合いはそう長いわけではありません。ご著書を通じては、学生だった40年近く前から存じていましたが、直接の関わりを持たせていただいたのは、'90年代半ば頃からです。光太郎に関し、どうにもわからない疑問が生じ(今にして思えば初歩的なことでしたが)、ご著書の奥付に書かれていた千駄木のご住所に手紙を送って質問させていただきました。すると、ほどなく懇切ご丁寧な返信が。その後、やはり先生が顧問を務められていた高村光太郎研究会にお誘い下さり、その席上で始めてお会いした次第です。それから連翹忌にも参加させていただき、何度も千駄木のお宅にお邪魔したりもしました(上記写真は千駄木のお宅でのショットです)。

そして、光太郎忌日の連翹忌。光太郎の歿した翌年の第1回連翹忌から、昨年の第63回まで、一度だけ、インフルエンザか何かでお休みされたことがおありだそうですが、それ以外は欠かさずご参加。第50回までは運営のご中心でした。
その間に、先生と共に連翹忌を立ち上げた佐藤春夫、草野心平、高田博厚、伊藤信吉、髙村豊周らが次々鬼籍に入り、今また先生も、光太郎の元へと旅立たれてしまいました……。
そういうわけで、今年初めて、先生のいらっしゃらない連翹忌を運営することとなります。そのご遺志を引き継ぎ、光太郎の、そして先生の業績も、次の世代へと語り継いでいく所存です。しかしながら、微力な当方には、皆様のお力添えがなければそれが果たせません。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
そして、あらためまして、先生のご冥福をお祈り申し上げると共に、今までのご労苦に対し、衷心より感謝の意を申し上げます。ありがとうございました。そして、安らかにお眠り下さい。
本日、朝一番でお宅に伺います。通夜、葬儀等の情報が入りましたら、当方フェイスブックにアップしますので、そちらをご覧下さい。
追記 北川先生お通夜16 日(木)18 時、葬儀17 日(金)11時、それぞれ文京区向丘2-17 -6浄心寺さんで行われることと相成りました。