岡山市に本社を置く地方紙『山陽新聞』さん。昨日の一面コラムで光太郎を取り上げて下さいました。
引用されている「冬が来た」は、大正2年(1913)12月の作です。
冬が来た
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
滴一滴
高村光太郎の「冬が来た」(詩集「道程」)は凛(りん)としてすがすがしい。〈きりきりともみ込むやうな冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た〉▼そして続く。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。立ち向かう強い意志。寒い、寒いと縮こまるわが身に熱い芯が通りそうである▼嫌がられる冬ではあるが、ただ厳しい寒さがなければ春の生命の躍動もない。桜が夏に花芽をつくって休眠し、冬の寒さで目覚める「休眠打破」はよく知られる▼同様に、秋にサナギとなったアゲハチョウが羽化するには、休眠して冬の寒さを経験する必要があるという。地面に葉が放射状にはりつく「ロゼット」状態で北風をやりすごすタンポポなども、震えているように見えて実はせっせと内部に養分を蓄えて春を待つ▼逆境やつらい時期はいつまでも続かない。「冬来たりなば春遠からじ」の言葉通り、やがては春を迎える大切な準備期間である。そう思えば最後のひと踏ん張り。今月半ばには大学入試センター試験が始まり、受験シーズンはいよいよ本番入りする▼きょうは寒の入りの「小寒」。7日は七草がゆの「人日の節句」。若菜の生命力をいただき成就を願う家庭もあるだろう。ほのかな野の香りや緑が、もうすぐだよと言ってくれそうである。引用されている「冬が来た」は、大正2年(1913)12月の作です。
冬が来た
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た
画像は花巻高村光太郎記念館さんで販売しているポストカード。写っている建物は、光太郎が昭和20年(1945)から7年間暮らした山小屋(高村山荘)です。ただし、小屋はむき出しではなく、中尊寺さんの金色堂のように、建物全体にカバーのような套屋(とうおく)をかぶせてあり、外から見えるのは套屋です。それも近在の農家の納屋風に設計したということで、レトロな感じが醸し出されています。
この季節に何度かお邪魔しましたが、ちょうど今頃はこんな感じなのではないかと思います(今シーズンは雪が少ないやに聞いていますが)。光太郎も「冬が来た」を書いた大正年代には、まさか後に岩手の山懐でこんな暮らしをすることになるとは思っていなかったことでしょう。もっとも、明治末には北海道移住を企てたりしていたのですが。
「滴一滴」子さん、話の展開が巧みですね。枕に光太郎詩を使い、チョウやらタンポポやらの自然界に話題を広げ、冬の寒さが無いと実は駄目なんだ、と。そこまで読んで、この後、人生訓に行くかな、と思ったらその通りでした。この手の文章のお手本のような見事な構成です。
光太郎も、その74年の生涯に於いて、何度も厳しい「冬」の時代を経て生きていました。「冬」のような厳しい状況に、時に自分の意志と関係なく見舞われたり、時に自らそうした状況を選び取ったり……。
欧米留学で最先端の芸術を見聞きして帰朝した青年期には、旧態依然の日本美術界(そのピラミッドの一つの頂点に、父・光雲が居ました)との対立を余儀なくされ、壮年期を迎えると、妻・智恵子の心の病、そして、死。老年期に入る頃には泥沼の戦争に歯車として荷担することになります。そして戦後、上記画像のような環境に身を置き、自分自身の来し方と向き合う日々……。
そうした峻烈な「冬」を何度も体験したからこそ、光太郎芸術は磨かれていったのでしょう。
比較的温暖な房総の地に暮らし、それでも寒い寒いと騒いでいるのが、ある意味、申し訳ないような気もします(笑)。
【折々のことば・光太郎】
峯あり谿あり河あり、山巓に日はかがやき、山峡に雲は湧く。人その間に住み、つぶさに隠密な人情の深みに生きる。
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た
画像は花巻高村光太郎記念館さんで販売しているポストカード。写っている建物は、光太郎が昭和20年(1945)から7年間暮らした山小屋(高村山荘)です。ただし、小屋はむき出しではなく、中尊寺さんの金色堂のように、建物全体にカバーのような套屋(とうおく)をかぶせてあり、外から見えるのは套屋です。それも近在の農家の納屋風に設計したということで、レトロな感じが醸し出されています。
この季節に何度かお邪魔しましたが、ちょうど今頃はこんな感じなのではないかと思います(今シーズンは雪が少ないやに聞いていますが)。光太郎も「冬が来た」を書いた大正年代には、まさか後に岩手の山懐でこんな暮らしをすることになるとは思っていなかったことでしょう。もっとも、明治末には北海道移住を企てたりしていたのですが。
「滴一滴」子さん、話の展開が巧みですね。枕に光太郎詩を使い、チョウやらタンポポやらの自然界に話題を広げ、冬の寒さが無いと実は駄目なんだ、と。そこまで読んで、この後、人生訓に行くかな、と思ったらその通りでした。この手の文章のお手本のような見事な構成です。
光太郎も、その74年の生涯に於いて、何度も厳しい「冬」の時代を経て生きていました。「冬」のような厳しい状況に、時に自分の意志と関係なく見舞われたり、時に自らそうした状況を選び取ったり……。
欧米留学で最先端の芸術を見聞きして帰朝した青年期には、旧態依然の日本美術界(そのピラミッドの一つの頂点に、父・光雲が居ました)との対立を余儀なくされ、壮年期を迎えると、妻・智恵子の心の病、そして、死。老年期に入る頃には泥沼の戦争に歯車として荷担することになります。そして戦後、上記画像のような環境に身を置き、自分自身の来し方と向き合う日々……。
そうした峻烈な「冬」を何度も体験したからこそ、光太郎芸術は磨かれていったのでしょう。
比較的温暖な房総の地に暮らし、それでも寒い寒いと騒いでいるのが、ある意味、申し訳ないような気もします(笑)。
【折々のことば・光太郎】
峯あり谿あり河あり、山巓に日はかがやき、山峡に雲は湧く。人その間に住み、つぶさに隠密な人情の深みに生きる。
散文「山田岩三郎詩集『国の紋章』序」より
昭和18年(1943) 光太郎61歳
昭和18年(1943) 光太郎61歳
結局、自然と人間の付き合いは、そういうことなのでしょう。