当会顧問・北川太一先生のご著書など、光太郎がらみの出版物を数多く手がけられている文治堂書店さん。そちらのPR誌2種が届きました。
まず、PR誌というより同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第9号。
拙稿が「連翹忌通信」の題で連載されております。かつてこのブログに書いたことをもとに、その後の調査等によって新たに判明した点などを踏まえて、さらにふくらませています。
それから、今号には詩人の佐相憲一氏による書評「野沢一「木葉童子」復刻版に寄せて 木葉童子がいま 微笑んだ」が掲載されています。野沢一は、光太郎と交流のあった詩人。山梨県の四尾連湖畔に独居生活を送り、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けました。その野沢生前唯一の詩集『木葉童子詩経』(昭和9年=1934)の復刻版が、佐相氏と縁の深いコールサック社さんから昨年刊行され、その関係です。ちなみに同書はかつて文治堂さんでも2回、復刻版を出しています。
それから、PR誌というか、パンフレットというか、おそらく月報のように、販売する書籍に挟み込む広告的な冊子だと思うのですが、『トンボの眼玉』という題名の無綴のもの。
今年4月に刊行された北川太一先生の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』の宣伝になっています。
やはり今年、『高村光太郎の戦後』を青土社さんから上梓された中村稔氏、吉本に詳しい評論家の久保隆氏、同じく芹沢俊介氏の玉稿、そしてこちらにも拙稿が載っています。
なぜここにそういうものを載せる必要があるのか、今ひとつ理解に苦しんだのですが、文治堂さんからの指示で、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』全21巻別巻1の刊行終了後に見つかった光太郎文筆作品(「光太郎遺珠」として当方がまとめ続けています)の一覧表。
「『高村光太郎全集』未収録作品集成」という題にしました。
詩が1篇、短歌11首、俳句で6句、散文は50篇くらいでしょうか。それから翻訳も3篇、新聞記事等に附された短い談話などの「雑纂」が30篇ほど。アンケートも多く10数篇、対談・座談が4篇、色紙等に揮毫した短句も10数篇。
それから文筆作品以外にも、他人の著書の題字揮毫や装幀が8点、絵画が4点。さらに書簡は新たに200名近くの人物に送った400通ほどが見つかっています。
さらに、『高村光太郎全集』刊行の時点で、初出掲載紙等が不明・不詳だったのが判明したものなどについても載せました。
画像、クリックで拡大します。
まぁ、『全集』刊行終了から20年。ここらで一覧表的にまとめておくのもいいかな、と思い、引き受けました。
ご入用の方は、文治堂さんまでご連絡を。
【折々のことば・光太郎】
いささかの詩的まぎらしや、やけな自己放漫無くはつきり、まともに現実に対する此のやうなギリギリな魂の眼を持ち、又其に相当する表現を平気でする勇気のある人の居てくれる事は心強い。
まず、PR誌というより同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第9号。
拙稿が「連翹忌通信」の題で連載されております。かつてこのブログに書いたことをもとに、その後の調査等によって新たに判明した点などを踏まえて、さらにふくらませています。
それから、今号には詩人の佐相憲一氏による書評「野沢一「木葉童子」復刻版に寄せて 木葉童子がいま 微笑んだ」が掲載されています。野沢一は、光太郎と交流のあった詩人。山梨県の四尾連湖畔に独居生活を送り、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けました。その野沢生前唯一の詩集『木葉童子詩経』(昭和9年=1934)の復刻版が、佐相氏と縁の深いコールサック社さんから昨年刊行され、その関係です。ちなみに同書はかつて文治堂さんでも2回、復刻版を出しています。
それから、PR誌というか、パンフレットというか、おそらく月報のように、販売する書籍に挟み込む広告的な冊子だと思うのですが、『トンボの眼玉』という題名の無綴のもの。
今年4月に刊行された北川太一先生の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』の宣伝になっています。
やはり今年、『高村光太郎の戦後』を青土社さんから上梓された中村稔氏、吉本に詳しい評論家の久保隆氏、同じく芹沢俊介氏の玉稿、そしてこちらにも拙稿が載っています。
なぜここにそういうものを載せる必要があるのか、今ひとつ理解に苦しんだのですが、文治堂さんからの指示で、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』全21巻別巻1の刊行終了後に見つかった光太郎文筆作品(「光太郎遺珠」として当方がまとめ続けています)の一覧表。
「『高村光太郎全集』未収録作品集成」という題にしました。
詩が1篇、短歌11首、俳句で6句、散文は50篇くらいでしょうか。それから翻訳も3篇、新聞記事等に附された短い談話などの「雑纂」が30篇ほど。アンケートも多く10数篇、対談・座談が4篇、色紙等に揮毫した短句も10数篇。
それから文筆作品以外にも、他人の著書の題字揮毫や装幀が8点、絵画が4点。さらに書簡は新たに200名近くの人物に送った400通ほどが見つかっています。
さらに、『高村光太郎全集』刊行の時点で、初出掲載紙等が不明・不詳だったのが判明したものなどについても載せました。
画像、クリックで拡大します。
まぁ、『全集』刊行終了から20年。ここらで一覧表的にまとめておくのもいいかな、と思い、引き受けました。
ご入用の方は、文治堂さんまでご連絡を。
【折々のことば・光太郎】
いささかの詩的まぎらしや、やけな自己放漫無くはつきり、まともに現実に対する此のやうなギリギリな魂の眼を持ち、又其に相当する表現を平気でする勇気のある人の居てくれる事は心強い。
散文「てるよさんの詩をよんで――詩集『叛く』について――」より
昭和4年(1929) 光太郎47歳
昭和4年(1929) 光太郎47歳
「てるよさん」は竹内てるよ。女流としては光太郎が最も高く評価し、交流の深かった詩人です。